<BOSS THE NK(最終スパンクハッピー)の回想録(7)>

 

 「おい、アリアまで歌ってみろ」と私が大声を出すと、工員全員の視線が私に向けられた。私は大臀筋と大腿二頭筋に人差し指の電極を刺し、加速状態にしてから全速力で階段を駆け上がり、彼女を捕獲しようとした。スタートした瞬間にゴールに飛び込んでいる感覚。彼女は「うわーっ!!うわーっ!!こいつ誰スかっ!!工場長~!」と叫びながら、脱兎のごとく工場の最上フロアに飛び移り、つまり、私と同じコースに乗った。

 

 

 

 工員たちは2フロア下、遥か後方にいた。おかしい。おかしいぞ。捕獲できない。今私は、瞬間的にだが、時速70キロ弱、100メートルを6秒切る速度を出している。ベン・ジョンソンがドープして出した世界新のタイムより早い。しかし、私と彼女の距離はほとんど縮まらず、心拍数は焦燥感とともに無用に上がり続けた。「おい待て!」「嫌だー!!来るなー!!怖いじゃないスかー!!!」「怖くない!警察やお前の家族の回し者じゃない!!待て!!」「あっち行けじゃないスかーーーっ!!あっち行けーーっ!!」

 

 

 

 いわゆるズタ袋のような、頭からすっぽり被る、コーヒー豆の入荷袋のような、端切れを縫い合わせた服を着た彼女は裸足だった。私は姿勢を14度前傾させ、空気抵抗を最少にして、3秒で彼女に追いついた。背後からタックルして抱きとめないと危険だ。行く手は鉄門の行き止まりになっており、複雑に入り組んだダクトがむき出している。この速度のまま突っ込んだら致命的な骨折が避けられないだろう。

 

 

 

 「待。て。」「うひゃー!!じゃないスかっ!!」私の右手が彼女のズタ袋に引っかかった瞬間、彼女は視界から消えた。私の掌には巻きスカート部にあたる布切れが残った。急停止してその布を確認すると同時に、ボッスーンという音が聞こえ、辺り一面に強力粉の白い粉が舞い上がって視界を遮った。飛び降りたのだ。

 

 

 

 「くそう!」と小さく叫んで、私は階下を見下ろした。そこは業務用のパン生地がロット管理される前にプーリングされている、巨大なステンレスのタンクがあり、トラックの荷台のように開放されていた。そこに満たされているパン生地の中央に、大きな窪みが出来ている。

 

 

 

 胸を刺されるような緊張感が走り、そこにいた全員が息をのむ中、「工場長~。ごめんなさいじゃないスかあ~~~うあ~~」という、のんびりした声が聞こえてきた時には、捕縛されていたのは私の方だった。屈強な工員たちが4~5人がかりで私を押さえつけている。

 

 

 

 「なんだテメエ!!」「あいつに何する気だ!!」「あんた誰スか~!」「落ち着け!私は怪しいもんじゃない!!、、、、いやあの、皆さん落ち着いてください。痛たたたたた!ちょ。手を離して下さい。手を離して!」。その気になれば一瞬でふりとける振りほどける程度に、彼らの捕縛は力任せの雑なものだった。しかし、今は菊地くんとして振舞わないといけない。私は痛がりながら笑って「痛い痛い痛い痛い!(笑)。スンマセンスンマセン(笑)。あの、、、違うんですよ、、、、、本当に怪しいもんじゃないんです。アタシは、、、あの、、、えーと、、レレレレコード会社の人間でして、、、痛たたたたた(笑)。ちょっと、手だけ離して下さいよ~。名刺出します名刺、、、、、出せないでしょ、こんな、皆さんで一挙にぎゅーぎゅー押さえつけられたら(笑)ねえ(笑)」

 

 

 

 視線の先には、彼女がパン生地の中から救出され、工場長と思しき老人にしがみついて震えているのが見えた。私がむしり取った巻きスカートの布地部分から片脚が露出し、アスリートのように締まった筋肉が見えたが、彼女はまったく気にせず、その足も使って老人にしがみついていた。「おい、お前、怪我はねえか?大丈夫か?」「(震えながら)大丈夫じゃないスか~。それよりアイツ、誰スか~。怖い~。工場長~」。

 

 

 

 老人は最大に訝しげな顔で私を見た。「あのねごめんごめん。僕はねえ、全然あやしくないんだ。全く怪しくないの(笑)。ホントに(笑)。追いかけて悪かったよ。君が逃げたからさ。慌てて追いかけちゃったの。ははははははは。ちょっとさあ、あの、そちら、工場長さん?ですか?自己紹介させてくださいよ~。ね?あらあ、粉だらけのパン生地まみれになっちゃったねえ(笑)、芸人さんの障害物競走みたいだ(笑)、後、ドッキリの落とし穴な。うははははははは。君、元気だねえ。ここで働いてるの?(笑)」

 

 

 

 「工場長~」「大丈夫だ。怪我なさそうだな、、、、、おい、お前、何もんだ?」「アタシはですねえ、あのうー、実はアレです。レコード会社の新人発掘部の者で」「レコード会社?レコード会社って、、、、どこだ?」「SONYSONY。知ってるでしょ」「SONY?じゃあお前、SONYの社員だな。名刺見せろ」「いやあの、実はアタシはSONYの社員じゃあなくてですね(笑)、、、、なんていうかな」「何言ってんだ、あっやしい奴だな~」「信じられないじゃないスか」

 

 

 

「わかったわかった。じゃあ、じゃあ、どなたかスマホかタブレット持ってませんか?アタシ名前言うから、検索して、写真と比べてください。あの、左手にね、墨入ってるから、その記事もあるから。インターネットに。パスポートも保険証も持ってますから。ね?とにかく手を離してくれませんかね~。腕が折れちゃうもん、ね?へへへへへへへへ」

 

 

 

 数分後に私は菊地くんの身分として照合された。工員の中にはTBSのリスナーもおり(菊地くんの番組のリスナーはいなかった。工員の朝は早い)、女子アナの話やタモリ倶楽部の話などをして、我々は意気投合し、私は淹れたてのコーヒーと、焼きたての、中にクリームを詰めていないコロネを貰った。

 

 

 彼女だけがまだ訝しがっていた。しかし、工場長は内心で喜んでいたようだ。「おい、有名な方がお前をスカウトに来たぞ、、、その、、、お前がどうするか、話は俺も聞いてやっから、、、、、とにかく奥で顔洗ってこい」

 

 

 

 私は、菊地くんにどうやって報告するかを考えていた。実に君好みのシュチュエーションだよ。パン工場にいた。ははははは。と、私の心拍数はやっと平常に戻った。

 

 

 

 しかし、顔と髪を洗って、汚いセーターとスカートで現れた彼女を見ると、私の心拍数は、またもや急激に上がった。彼女は私の知人だったのである。

 

 

 

 「うわちょっと!小田さん!ええええええええええ!小田さんなんでこんな所、いや失礼、あのう、、、こんな所っていうのは、、、パン工場は素晴らしいですよ!そうじゃなくて!小田さん何で?」

 

 

 

 小田朋美さんの演奏も歌も、私は勿論よく知っていた。しかし菊地くんから聞かされていた小田さんは、作曲家に特有の、多少のヒステリー傾向があるだけで、縞性で重篤な健忘症とか、解離性の多重人格者ではない筈だ。それとも、菊地くんとて、仲間の精神障害は私にさえ話さないでいたのだろうか。私は少々恐ろしくなった。

 

 

 

 「小田さん。小田さんですよね?、、、だからバッハを、、、、ほら、僕ですよ、、、あっれ?、、、いやだなあ小田さん、逃げたりして(笑)」「工場長~」「なんだお前、ちゃんと小田って名前があんのか?」「知らないじゃないスか~。こいつ気持ち悪い~」「え?小田さんじゃないの?、、、ちょっと、、、、あの、小田さん、、、、、はははは。ふざけるの止めましょうよ(笑)。僕ですよ僕」

 

 

 

 あ、何か事情があるのかも。私は、一瞬息を飲んだ。しかしどうやら、彼女は嘘をついていない。彼女の過密スケジュールを鑑みるに、工員たちと懐いている時間などある筈がないし、顔と声と脚の筋繊維の状態以外は、全くの別人としか思えなかった。

 

 

 

 「小田って誰スか~。全然知らないじゃないスか~。お前、早く出て行け~(泣)」

 

 

 

 彼女は泣き出し、私は3度目の戦慄を感じた。こいつは。小田朋美さんじゃない。