スパンクハッピー活動再開に際して/菊地成孔と小田朋美による共同声明

 「それはどこにでもある、聞いた事ある、そんな、ありきたりでつまらないお話/スパンクハッピー活動再開に際して/菊地成孔と小田朋美による共同声明」

 

<まず菊地成孔>

 

 (スパンクハッピーを包括的に語る事のみならず、ODを小田朋美さんだとして書く文章は、少なくとも僕は、これを最初で最後とするので、小田朋美さんのファンの方は特にお読みください、あるいは特にお読みにならないでください)

 

  一期のヴォーカルだった原みどりさんも、相方だった河野伸くんも共に現役で元気に活動しているし、アルバムはボーナストラックまでついた復刻版が出ています(2007年10月。もう10年以上前ですね。これもぜんぜん売れませんでした。発売時も復刻時も売れないのだから、永遠に売れないと思います・笑)。

 

 ですのでやはり、ファンの皆様の前から、魔法の様にミッシングしてしまっているままの、岩澤瞳さんについてから書かせて頂きます。

 

 とはいえ、生きていれば今頃40歳になるのね私のジョンベネ・ラムジー。ではなく、生きていれば今頃ちょうど40歳になる岩澤さんが、今どこで何をしているか、僕はまったく知りません。

 

 最後に連絡をとったのは、僕と一緒に岩澤さんのメイクと衣装を担当していた、親友の蒼井紅茶が亡くなった時で、これももう、何年前なのか記憶が曖昧です(彼女と、彼女が息子さんを抱いて昼寝をしたまま、夢見るように亡くなってしまったこと。については文庫版の「スペインの宇宙食」のあとがきに詳述されています)。

 

 岩澤さんからは、数年分(当時)の報告と、葬儀に行くか行かないか?行くなら一緒に行くか?といった内容の、ごくごく普通のメールが届き、僕は何か、とても安心したのですが、自分は葬儀は嫌いなので行かない。後で一人で仏壇に手を合わせに行く。と書いて送りました。

 

 そのメール以来、岩澤さんは僕の前からもミッシングしたままです。SNSをやれば、何かあるのかな?ちょっと興味あるな。とも、あまり思えません。

 

 ただ、はっきりしている事は、人生には、ミッシングパーソンがいるぐらいが自然であり、豊かなのだ。という事です。岩澤さんがこの地球のどこかで(東欧あたりでご結婚して、お子さんを何人か産んでいても、ご実家でご家族と一緒に暮らしていたとしても、亡くなっていたとしても、全くおかしくない人でしたので)、少しでも安楽に、幸福に過ごされている事を心から願っています。

 

 三期の話をするのが本稿の目的ですので、二期の音楽性について若干触れます。実のところ、僕が何を考えて二期をやっていたか?という話は、インタビューで大量に残っていますが、敢えてスタイリッシュに潰乱的に話し(どうせ理解なんかされっこないと思っていたので)、インタビュアを煙に巻いていたので、真面目に話すのは初めてです。

 

 岩澤瞳さんをミューズとする二期スパンクハッピーは、様々な美学的な伽藍の中に閉じ込められた宝石のようになっていたので、中毒性の高い、美しい思い出になっているファンの方々も多く、三期は先ず何よりも、二期と比較される、という、時間の無駄としか言いようがない通過儀礼から始まるのは致し方ありませんし(そしてそういったものは、経験則上、秒速で鎮静されるものですが)、それ以前に、有難いことに、多くのリスペクトを受けている実感もあります。

 

 ただ、換骨奪胎というか、往々にして影響関係というのはそういうものですが、二期スパンクスのリスペクトを表明される方が「食えてない芯」のようなものがあります。この事をお話しする事が、二期スパンクスの本質を具体的に語る事になると思われます。

 

 それは具体的に音楽の内容というより、<病み>という現象への理解 / 誤解。継承 / 切断です。

 

 病理を含まない音楽は原理的にありえません。なので、二期スパンクハッピーも、かなり意識的 / 計画的に病理をメッセージに含ませました(計画を超えた部分も当然存在し、それが計画という実行に乗って、計画ごと伝わる、とするのがフロイト流ですが)。

 

 文脈上お分かりいただけていると思いますが、これは、誹謗でも中傷でも全くなく、敬意や感謝と共に名前を出して書きますが、アーバンギャルドさんに代表される、二期スパンクハッピーの影響を公言する方々は、二期スパンクスの中の「症状」の部分を、かなり薄めたか、あるいは誤解しているか、あるいは(後述する)オリジナリティを加えているかしたまま、大量に拡散されたと思っています。

 

 これは一例ですが、根源的な性倒錯について、後続者は何も歌っていませんし、(神経症ではなく)精神病についても、何のメッセージもないように思えます(しつこいようですが、事の善悪では無いです)。

 

 二期スパンクスが後続に分与しなかったコアとは何かと言えば、「青春について歌わない」という鋼鉄のマナーです。

 

 誰もがついつい、青春について熱心に歌って、それがリアルでシリアスで素晴らしい事であると、無審査に価値が決定している世界で、僕は青春について歌う気は全くありませんでした(勿論、他の人々が歌うのは一向に構いません。というか、それが20世紀後半のポップソングの国是ですし。国是に従う事は国民の義務です)。

 

 歳が大きく離れた(13歳差)男女が青春という現象を歌ったりしたら、それこそ、二期への裏返しの賞賛だった「気持ち悪い」が、ツイストなしの、そのまんまになっていたでしょう。二期スパンクスが音楽に乗せた病理は、反青春もしくは非青春というゾーンの中にあります。

 

 一般に、臨床的な意味でも、ネット的な意味でも<病み>というのは、<青春と恋>という状態の第1コンテンツに過ぎず、というか、トートロジカルに、青春というのは<恋=病み>が微熱的に体質化/慢性化している一定期間の事です。

 

 ですので、あくまで僕のカテゴライズでは、奥田民生さんの歌も、ゴールデンボンバーさんの歌も、aikoさんの歌も、アーバンギャルドさんの歌も、女王蜂さんの歌も、小沢健二さんの歌も、おおよそ日本語のポップスのほとんど総ては「青春と恋」という、非常に魅力的で苦しい季節に関する表現のバリエーションとして、文学や映画等とも一括でき、更に言えば、今や古語ですが、「メンヘラ」とか、「こじらせ」というのは、「基本は量的な還元」というフロイトの原理にかなっていますが、いずれにせよ、軽症、重症に関わらず、青春という現象に収斂されてしまう病理を中枢にした音楽は、いずれも二期スパンクハッピーとは全く別の音楽だと思っています。

 

 「ヴァンドーム・ラ・シック・カイセキ」では、社交界の少年売春まで扱った二期が表現したかったものは、幼児的がもたらす総てについて、退行の純粋さから倒錯性まで、総てを極限的に、病理的に網羅しようという事でした。

 

 「普通の恋」を、スパンクハッピー名義にしなかった(この事実をご存知ない方も多い時代になった。と思いますが)のは、楽曲の出来、不出来と別に、あれが紛う方無き青春の歌だからです。

 

 青春は「こっ恥ずかしい」ものですが、幼児期に受ける羞恥心に「こっ恥」の「こ」の字もありません。幼児期の「主観は全知全能、客観は無知無能」という、テラサイズの勘違い状態から生じる羞恥心は激しく、どのぐらい激しいかといえば、激し過ぎて誰も記憶できないほどです。

 

 二期スパンクハッピーは「15年早かった」等とよく言われますが、それは音楽性やパフォーミングが先鋭的に過ぎた、という事もゼロではないでしょうが、青春という状態の株価が高騰していた時代(活動時期)には咀嚼出来なかった物が、退行という状態の株価が高騰した現在から読み直すと腑に落ちる。というだけの事ではないか、とも思っています。 

 

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 岩澤さんが、文字どおり、持病をこじらせ、音楽活動どころか、社会生活まで困難になってしまう事で、我々の活動が終了してから、僕は数年間あがいて(この時期を、第三期、第四期、という風に数えないのは、単に音源の発売が無かったからで、マイルスに於けるロストクインテットのようなものです)、最終的に、06年に野宮真貴さんとのステージでスパンクハッピーを完全に終結したつもりでした。

 

 この時期にミューズでありマネキンをしてくれた、ドミニク・ツァイさん、縣亜希さんを始めとする何名かの方々には、未だに懐かしく、感謝と友愛の念を持っていますが、岩澤さんと同じ、僕にはミッシングパーソンズのままです。皆さんの御多幸を心より願っています。

 

 僕より年上かつ、実年齢だけではなく、真の意味で「大人の女」である野宮さんにマネキンをして頂いた事は、そういうわけで、基底部にインセストタブーを置いた幼児性の表現という、二期スパンクスの終了、という構造に対して、過適応ぐらいに適応していました。スッキリする、というのは、排泄ぐらいでも容易に得られる感覚ですが、あの時の、無意識の底から完全にスッキリした感覚は忘れられません。「ああ、ことが完全に終わる。というのは、こういう事なのか」と思ったのが、2006年の10月です。それは京都で、スパークスの前座でした。

 

 翌年にはデートコースペンタゴン・ロイヤルガーデンも活動停止し、僕は、ペペ・トルメント・アスカラールと菊地成孔ダブセクステットの活動に集中します。「デギュスタシオン・ア・ジャズ」と「南米のエリザベステーラー」を手土産に、俗に「ジャズ回帰」と言われる、ジャズミュージック界へのお礼参りは痛快かつ攻撃的で、絵に描いたようなパラダイムシフトの快感と恐怖が、僕を異様なほどに生き生きさせていました。それはドスを呑んだままの赤ん坊が生まれたような感覚でした。 

 

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 小田朋美さんと出会ったのは、実はかなり古く、そもそも彼女は東京藝術大学の、僕のクラスの生徒(潜りですが)でした。

 

 女子大生と非常勤講師、等というと、俗流のエロチカが連想されても致し方ありませんが、エロチカどころか、彼女は当時スキンヘッドで、今の5倍ぐらい目つきが悪く、コミュ症の具合も今の3倍は重症でした。初めて出会ったのは、藝大のキャンパス内です。

 

 それは授業前後とかではなく、当時、僕が音楽を担当させて頂いていた、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」という番組の特番(「爆笑問題のニッポンの教養「表現力!爆笑問題×東京藝術大学」)の収録直後でした。

 

 藝大のキャンパス内に特設会場を組んで、爆笑問題のお二人が芸大生と「芸術」について討論する、という企画でしたが、当時非常勤講師であり、番組の音楽担当だった僕はゲストパネラーとして参加しました。

 

 これが2009年の8月ですから(僕が46歳、小田さんが21歳)、スパンクハッピーの活動終了からほぼ3年後です。いわゆる「喪の作業」には一般的 / 平均的な尺は存在しませんが、前述の通り、腹の底から完全にスッキリしてから3年後、というのは、喪もへったくれもないぐらいの時期です。

 

 神の視点に立てば、これは<完全に喪の作業が済んだ時には、すでに再生の契機となる人物と出会っていたのであった>といった訳で、今度は俗流のエロチカならぬ単なる運命論ですが、それに倣って些かロマンチカに言えば、「その時は、後にどうなるか、誰も知る由もなかったのである」といった態でしょう。本稿を通じて僕が皆さんに伝えたい事があるとすれば、人生は何でも起き得る、と本気で考えている限りに於いて、実際に何でも起き得る。という事です。

 

 小田さんとの、三期にして最終であるスパンクスの単独ライブデビューは8月5日なので、この、出会いの瞬間から丁度9年後になりますが、その時はスパンクスは言うまでもなく、後の「シャーマン狩り(2013)」は愚か、DCPRG入り(2014)ですら、夢のまた夢、という感じでした。

 

 小田朋美さんは僕にとって極端で特別な存在です。それは、特別魅力的だとか、特別嫌いだとか、特別能力が高いとか、特別不安定であるとか、特別天才的であるとか、そういった人間的なリージョンだけではありません。

 

 彼女の極端な特別性については、「スパンクハッピーとDCPRGのどちらにも加入できる / した、唯一の存在」という雄弁な事実を示せばそれで充分だと思います。スパンクハッピーとDCPRG(当時)は、僕の神経症を発症させる。つまり、分裂の具現体であり、ですから小田さんは僕にとって、統一の具現体ということになります。更に言えば、それは相互的だとも言えるでしょう。小田さんは、以下の様にして、僕と最初に接触したのですから 

 

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 出会い、というと、左から僕が歩いてきて、右から小田さんが歩いてきて、額でもぶつけたかのようなイメージですが、実際は、僕の背後から尾けてきたきた小田さんが、ささっと僕の傍に付けたのです。

 

 前述の通り、坊主頭(いわゆる「スキンヘッド」的な、モードでデザイン的な者ものではなく、男子高生みたいなバリカンの丸刈りでした)で目つきが悪く、物凄く怯えていて、低い、小さな声で抑圧的に話す、絵に描いたような背伸びしたパンク少女は、炎天下の長時間収録が終わってヘトヘトになっている僕に横付けると、こちらも見ずに、こんにちは、だとか、私はあなたの生徒で、だとかの挨拶も何もなく、開口一番、「(聞き取り不明)なもん、、、、、全く何の意味も(聞き取り不明)」と言ったのです。

 

 「うっわ!出た芸大のパンクマルコメくん(笑)」と、笑いを堪えたのを覚えています。

 

 発声は、中森明菜さんの調子の悪いとき(或は良いとき)みたいな、低く抑圧的な声で、全然聴き取れず、「え?なんですか?全くなんの意味も無い?と?とあなた仰った?」と聞き返したら、はいそうです、も、いやあ、そういう意味じゃなくて、も何もなく、もう一度、「、、、ぜんぜん意味無いすよ」と、下を向いてガンたれながら、吐き捨てるように言ったのです。

 

 あまりにも図式的な不良っぷりと、テレビの公開討論番組など意味がない、という、愚直で70年代ぐらいの文化認識に、微笑みを禁じえませんでした。お父様の膝の上で一緒にテレビを見ながら育ったかな? 

 

 この、小田さんの「ルックスと反比例する面白さ」はコケティッシュでもキュートでも、癒しでもありました、この時に感じた「かっこいいのに面白い」感じは、未だに小田さんから失われておらず、インスタグラム(やってますよー。そこそこ面白いと思いますので、是非チェックを!)御存知の通り、現在のODの人格造形に直接組み込まれています。 

 

 おもしろきことは善きこと哉、この時僕は、「やっべキタキタ暗くて危ねえ馬鹿(笑)」とばかりに、ささっと逃げる(そんなことは僕の5歳の頃から現在までずっと続く日常茶飯事です)気に全くならず、相手をすることにしました。よしんば、万が一彼女が、音楽のお稽古しかした事の無い、生意気で鼻持ちならない、お嬢様上がりの藝大生がなりたがる下降志向の似非不良(藝大に、こんなパースナリティの生徒は腐るほどいます)だったとしても。です。

 

 僕は過去、倉地久美夫、今堀恒雄といった真の天才が開花する前の危なっかしい頃から見抜いて、彼等と強くフィットする能力を持っています。自分が天才ではないからでしょうね。天才は、そうですね。苦しいと思いますよ(笑)。僕にはわかんないけど。

 

 最初僕は、性同一性障害の子かな?と思いましたが、どうやらそうではなさそうで、適正値を言えばボーイッシュこじらせ、ぐらいだったと思います。二度言いますが、僕は本当に育ちが悪く、女の子であれ、学童であれ、初対面の人物に対して、まずは拳と手首と瞳孔をチェックします。喧嘩の跡も、自傷の跡もなく、目もしっかりしていて、とてもヘルシーであることを確認した僕は、取り敢えず誠実モードで話しました。 

 

 「いやあ、あなた、無意味とか茶番とか仰るけれども、テレビ番組なんて、それを言ったらどんな番組だってみんな茶番で、みんな意味なんて無いですよ、マスメディアの産物なんだから(笑)、それより太田光さんは漫才師だけどクリエーター志向もあるし(当時。今昔の感がありますなあ)、今日は仕事というレヴェルを超えて、かなり本気でお話しされていたと思いますけどねえ?どうでしたか?」と、僕なりにかなり丁寧に言うと、1音も全く答えません(笑)。何かを言いたそうに、しかし緊張を隠す為にガンはたれたまま(笑)モゴモゴしている様を見て、僕は噴き出しそうになりました。 

 

 有能な漫才師だったら、「無言かーい!」と言いながら、拳骨で頭をこすっていたでしょう(笑)。隠そうと思えば隠し通せるこの属性を、商品価値として外化させた責任のほぼ100%は僕にあります。小田さんをシャーマニックでカリスマのある、シリアスな巫女として崇拝したい方からは抗議を無限に受け付けます(笑)。 

 

 僕はかなり丁寧に話し、やっと相互コミュケーションが取れて来た頃には、校門近くで長沼が待っている事務所の車が見えてきて、ではまたいつか。という事になりましたが、今ではその車に2人で頻繁に乗るので(長沼の運転で)、この段階で僕が皆さんに伝えたい事があるとすれば、人生は何でも起き得る、と本気で考えている限り、としますが、何でも起き得る。という事です。 

 

 小田さんの述懐によれば、芸大生時代の小田さんは、僕のナディア・ブーランジェに関する講義中の間違いを指摘したり、僕が「対位法を4年間かけて修得し、卒業しても、何の仕事も無い」と言った事に抵抗を感じたり(授業は「古典的な楽典と、商業音楽理論の違い」を比較文化として扱う事がメインでしたので、「対位法やっても何の仕事も無い」発言は、あくまで商業音楽の現場での話しであり、対位法を作曲学から排除してスタートする商業音楽理論のインスタント性の強調の為の発言だったのですが、バッハを神とする小田さんにとって、対位法に対する侮辱ぐらいには思った様です)ちょっと気になる非常勤講師に対し、そこそこ精神的に忙しかったようではあるのですが、僕にとって小田さんは何よりも「テレビ収録が終わった時に近づいて来た素敵な不良マルコメくん」のままでした。

 

 ただ、小田さんがそのとき全身から放っていた「助けてくれ。雁字搦めの自分を解放してくれ」という、嘆願の叫びに近いメッセージはビンビンに届いていており、僕の胸に、小さなトゲとして刺さっていました。刺さっていましたが、僕には現実的になす術も無く、「あの子、今頃どうしてるんだろうなあ?」とか思いながら、一端は忘却していました。

 

 

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 更に3年後、震災があり、「粋な夜電波」が軌道に乗り始めた、2012年の事です。当時モーションブルーのブッカーだった岡島という男から「凄いバンドがいるんですけど、今夜ウチでライブなんですけど、今から菊地さんいらっしゃいませんか?無理ですよね。ふふふふ」というメッセージが入っていました。これがものんくるです。

 

 当時、やはり僕の元・生徒であるベーアこと阿部淳くんは、エアプレーン・レーベルを実質上仕切っていましたが、それ以前&以上に、僕を慕う、飲み友だちでした。彼はものんくるを、彼が就業していた(今は独立して、アポロサウンズというレーベルを立ち上げています。アポロサウンズはクラックラックスのレーベルです)エアプレーンからリリースすべく、僕にプロデューサーのオファーを打診、というか熱望しました。

 

 吉田沙良さんとの話になると、更にスピンオフしてしまうので全て割愛しますが、僕はものんくるを聴いて快諾し、彼等のファーストアルバムをプロデュースします(それに続いたのが、青羊さん=けもので、要するに現在のTABOOのラインナップは僕とベーアで作った訳ですが、「EWE→ユニバーサル→インパルス!→ビュロー菊地レーベル→TABOO」というひとつのサーガも、詳述していたらこのテキストがスパンクスまで辿り着くのに10日ぐらい経ってしまうので割愛します)。 

 

 とにかく僕は、ものんくるとけもののアルバムをエアプレーンで製作し、気を良くしたベーアが次にプッシュして来たのが、「小田朋美」という、芸大の作曲科を出た女の子だったのです。 

 

 ベーアがあの声で「本当の天才ですよ。絶対凄いんで、資料送ります。是非そのお、、、、、プロデュースを(笑)」と言いながら、僕のワイングラスに、スーパートスカーナを注いだのをよく憶えています。 

 

 しかし、僕は、ベーアが持ってきたデモテープを聴き、ライブDVDを見て、1秒の迷いもなくノーと言いました。 

 

 「この子は物凄い潜在能力があるけど、基本言語がクラシックだ。オレがプロデュースするのは畑が違いすぎるし、この子に失礼だよ」と、可能な限りの誠実さで言ったつもりですが、ベーアは「そこをなんとか~」とあの声で擦り寄ってきました(笑)。あの時、ベーアが粘らなかったらと思うと寒気がします。この段落を借りて、阿部くんに最大の感謝を捧げます。 

 

 青羊さんは元ジャズシンガーですし、今ではその片鱗も感じさせない吉田沙良さんも、オーニソロジー=辻村くんも、全員がジャズ発です。演奏中、全員をいきなりカットすることはジャズならば「ブレイク」「ミュート」と言いますが、クラシックだと「ゲネラルパウゼ」と言います。現場で、「ここのアンダンテは僕のアウフタクトで、ゲネラルパウゼします」とかいうかオレ?(笑)などと言いながらも、小田さんの才能の、危なっかしいほどの輝きと、自分でも収拾のつかない混乱と未熟さは、僕を深いところで魅了していたと思います。

 

 「作曲はできるが、作詞ができない、有名な詩人に使用の許可を貰ったり、書いてもらったりしている」とベーアに言われ、「別にそれは良いけど誰の詩よ?」と聞いたら「谷川俊太郎と宮沢賢治」と言うので、僕はルノアールの歌舞伎町店で大量のアイスカフェラテを吹き出しました。僕が苦手な詩人のナンバー1と2だったからです(笑)

 

 もう逃げよう。彼女には何の罪はないが、やっぱダメだ芸大(笑)、と思いながらも、ベーアの粘りは続きました。

 

 

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 結果として、「シャーマン狩り(2013)」を「共同プロデュース」という名義でリリースさせるに至る、最大の理由は、どう逃げようとも逃げ切れない、小田さんの才能と魅力、というのが最も適正でしょうが、「小田朋美」さんが、「あの時のパンクマルコメくん」と同一人物だと知った、という事実によるサポートも大きかったと思います。

 

 髪も伸び、やや狂的な表情と挙動不審ぶりは少し残していたとはいえ、元々の育ちの良さから来るエレガンスと、前述の<面白さを>エレガンスとメンヘラぽさと兼ね備えた、女性としての魅力に満ちていて「あらあ、君、あの時の坊主くんですか(笑)」「(俯き加減に)はい(笑)」「あらあ、ちゃんと返事できるようになっちゃって(笑)」と、再会の挨拶の後、僕は「これ以上、オリジナル曲はないし、書けないのね?」というと「(横を見ながら)はい」と言うので、「わかった、こうしましょう。僕はあなたのオリジナル曲には一切触りません。足りないものを考えてアルバムの全体像を決めるから、共同プロデュース。という事にしませんか?」「はい、でも、何をやればいいんですか?」「カヴァーですね」「カヴァー、、、、、」 

 

 僕は彼女に、20曲ぐらいのカヴァー曲候補を与えました。洋楽も方角も適当に混ぜて。アレンジもお任せで。すると、返ってきたデモには、ドラマーの田中教順くん(元DC/PRG)とのデュエットが収められており、それは流行りのメトミックモジュレーション、タイム・エクスパンション&コントレクションの発想が基礎になっていて、その手法で演奏されたパフュームの曲は実に素晴らしく、「これヤバい。これだけでアルバム一枚作るならフルプロデュースしても良い」と、僕はいきなり色気を出しました。「このやり方でいい。このセットで後2曲いきましょう」

 

 

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 小田さんのオリジナルは、クオリティは非常に高いものの、やはりアレンジはクラシッくべースですし、そこがクラシックの醍醐味だから言っても仕方がありませんが、僕にとって、ややドラマティックすぎる様に思われ(「風よ吹け 風よ吹け」と歌う曲と「雨よ降れー!」と絶唱する曲があったので、「雨乞いのアルバムかよ(笑)」と、ついつい笑ってしまったりしていました)、僕は一切触らない方が良いと再確認しましたが、僕がカヴァー案として送った楽曲群から、まさか選ばないだろうと思っていた「鏡の中の10月(小池玉緒)」や「エンジェリック(スパンクハッピー)」があったのにはちょっと驚きました。選曲自体も去ることながら、その音楽的な魅力にです。

 

 しかし、小田さんがデビューアルバムにスパンクハッピーの曲をカヴァーしていたという事実でさえ、僕は兆しだとはまったく思いませんでした(すでに多くのインタヴューを受けており、彼らは鬼の首でも取ったように、「あのエンジェリックの時から、菊地さんはスパンクス活動再開の着想があったんですか?」というので「全然(笑)」と正直に答え、彼らの作ったストーリーを、食い終わった割り箸のようにバッキリ折り、落胆させて喜んでいます。申し訳ない・笑)。

 

 「対位法も書けず、和声法もあなたと違うシステムを使っている僕にあなたのプロデュースは、実務として出来ません。ジャズ畑の人しか責任を持って預かれないんです。ですが、僕が保証しますが、あなたの才能は凄い。なので、僕があなたをフックアップしましょう。これは約束します。僕は約束は守ります。音楽に関してなら(笑)」「、、、あの、、、フックアップって何ですか?」「直訳すると、釣り上げる、ということですが、そうですね、有名にするということです。あなたは、数年で僕より有名になります」「(中森明菜の声で、下を向いたまま)なりっこないですよ(苦笑)」「なりますよ。見ててください(笑)」

 

 そのあと僕が彼女を最初に連れて行ったのは、松尾潔さんがトータルプロデュースする、JUJUのジャズアルバムの、僕がプロデュースを担当する曲の、仮歌入れの現場でした。小田さんは、歌ったことがない「ミスティ」の仮歌を入れ、僕は松尾さんの反応を見ました。

 

 彼は明らかに興奮していました「菊地さん、あの子すごくいいねえ。どこで見つけてきたんですか?」「芸大(笑)。作曲科だから、坂本龍一の後輩(笑)」「うおー(笑)すごいなーやっぱ菊地さんは。マジカルなキャスティングをなさいますね(笑)」

 

 僕はメモ用紙を破いて、汚い字で「小田さん、松尾さんが興奮しています。挨拶して名刺を渡してください」と書いて、スタジオの隅で、ささっと渡したんですが、全くするそぶりがなく(笑)、とうとう先に松尾さんが近づいていって、「ねえ、あれですよねえ、グレッチェン(パーラト)とか好きでしょ」「、、、ああ、はい、、」「凄い良いですよねえ。無駄ナヴィブラートとかがなくて」「、、、はあ」。僕は内心、(知ってるわけねえ・笑)と思いながら、笑いをこらえるのに必死でした。

 

 

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 小田さんとメールのやり取りをする季節が来て、アルバムのタイトル案を出すので選んでください。と、いくつかの候補を出すと「絶対に<シャーマン狩り>が良い」という答えでした。

 

 このタイトルは、雑に一聴すると、親殺し=アンチエディプスであるが如く聞こえかねませんが、何度も諳んじで、アルバムを聴き、小田さんに移入するに、そうではない事が解るでしょう。

 

 ここで「狩られる(GO GUNNIN'が英訳ですので、詰まり、弓矢とかではなく、猟銃で射殺するのですが)」のは、小さく箱庭の世界に納まって出れないまま、しかしそこで巫女になってしまった、小田朋美さん自信です。今の小田さんが、過去の、出来上がってしまった小田さんを狩る事。ここまで小田さんに伝わったかどうかは解りません。ただ、小田さんは、他の候補と比較する気もないほど、「シャーマン狩り(GO GUNNINNG SHAHMAN)」というタイトルを推しました。

 

 そしてシャーマンを狩るのは半裸のインディオです。半裸のインディオが、自分の村のシャーマンを狩ると、それは自分であった。僕に、いつもの「あ、あ、あ、そうか、あ、あ、」が湧いて来ました。

 

 あ、あ、あ、あ、そうか、この人、嫌がりそうにないな。よし決めた。言ってみよう。

 

 

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 「小田さん。ジャケットなんですけど、オールヌードどうですか?」というと、「ああ、良いですね」という、予想通りの答えが返ってきました。狼狽しなかったのは僕ら二人だけで、関係者(特にベーア・笑)は全員、色めき立っていましたが、撮影はカメラマンの女性と僕と小田さんと3人で行われました(メイクは、今スパンハッピーのメイクを担当してくれている池田さんでした。池田さんは先日の再開の際「あー!久しぶり!あれですよね!ヌードの!」「はい(笑)」といった会話を小田さんと交わしていました)。

 

 いろんなポーズさせましたが、小田さんは、全く恥ずかしがらず、どこも隠さずにどんどん動くので、胸や尻どころではなく、移動中に局部も肛門もチラ見ましたが、全くエロティークではなく、むしろトライヴァルでした。それよりも、この段階で、僕がタトゥーカルチャーとコミットしておけば、と悔やんでいます。ヘナタトゥー(刺青ではなく、植物色素で肌に描く、非常に細かい文様。一週間ぐらいでで消える)で顔面からつま先まで文様を入れたら、どれだけ美しく、攻撃的だったか。まあまあこれは、「来るべき最終スパンクハッピーに向けて無意識が取っておいた」としましょう。

 

 撮影を終えた小田さんは、トラットリアで結構ハイになり、バローロのかなり良い奴の赤をぐいぐい飲み、マンガリッツァ豚のローストをガンガン食べながら「いやあ、ヌード良いですね。スッキリしました」「今日、すごく楽しかった」と笑いながら言いました。「そりゃそうでしょう(笑)」と僕は答え、「この写真は、黄色か緑色に着色した上で、様々なアクセントラインを引きます。背中にはバーコードを入れます。刺青の代わりというか」「なるほど、、いいですね」。

 

  その後も何やかやと、小田さんの(というかクラシックの)能力が必要とされる現場には、積極的に来ていただきました。中でも素晴らしかったのは、菊地凛子さんの「戒厳令」の中の「the lake」の弦楽アレンジです。仕事柄、弦のアレンジャーなんて死ぬほど知ってますし、僕自身もします。しかし、調性音楽の強度というか、キーがちゃんとある楽曲で、ここまで響かせ、感動させる能力を僕は知りません。いつか小田さんにぺぺの弦楽アレンジを。と思っているまま、2014年にはDC/PRGに加入してもらいました。

 

  天に誓って、これは誹謗ではありませんが、丈青は、難しいリフというのが苦手で、その代わり、ソロには凄まじいものがあります。シミラボとのコラボを終え、ネクストは作曲作品だ、と思っていた僕は、ちょうど丈青がソイルが忙しくてもう無理かも。という時に、小田さんの加入を決めました。

 

 ジャズタッチのソロはできない代わりに、どんな難しいリフも平然と弾いてしまうスキルは予想通りで、カンタ(コーラス。サルサの用語)も出来る小田さんの広範囲に高いスキルはDC/PRGをネクストレヴェルに引き上げる機動力になりました。僕と小田さんと大儀見でカンタをトランシーに繰り返す「JUNTA/軍事政権」や、小田さんにコロ(ヴォーカル。サルサの用語)を取ってもらい、僕と大儀見がカンタに回る「移民アニメーション」は、作曲した高見一樹に無断でダビングしたものですが、達磨に目が入った形で、プレイメイトや構造1と並ぶ、DC/PRGのクラシックスになったと思います。小田さんがお気に入りの「fka」のライブアレンジも、小田さんの近現代の和声法のアダプトに寄って、グレードが何ステージも上がったと思います。

 

 最初はおぼつかなかったソロも、スクリャービンやラフマニノフやブーレーズなどの現代音楽や、民族音楽のミクスチュアという独特のスタイルとなって、ジャズ~フュージョン100%の名手、坪口とのコントラスト/シンメトリーによる音楽的効果を上げています。老練から若手まで、我々全員が見守る中で、ライブ毎に成長を遂げてゆく姿は、韓国だったら「バンドの中の妹」と呼ばれたでしょう。実際に小田さんは、お兄様が二人いる末っ子です。フロイディアンが、こんな俗流の心理学みたいな物を振り回すのはどうかと思いますが、小田さんは、年長の兄二人と父親という男性社会に、何とか入れてもらいたいが、なかなか入れてもらえないという、よくある認証要求の強い人で、それが、どエゲツない腕利きの男達の中に入る事で、昇華もあるだろうし、何せ、家族で果たせなかった事を果たすのだから、大変な力を出すだろう、ぐらいは思っていましたが、それは予想以上でした。

 

 更には僕が新宿ピットインでやっている「モダンジャズ・ディスコティーク」で、ライブタイムのブッカーをやっていたベーアが、「小西という凄い才能がいまして、ニューヨーク(かな?)の家を全部引き払って帰国したんだけど、日本でバンドが無いって居るから、このイベント用にバンド組めって行ったんですよ~」と、あの声と口調で言うので、「へーそうなんだ」とつれない感じで言っていたのが、クラックラックスです。

 

ここから先は、どなたもご存知でしょう。2016年の夏のある日、喫茶店で小田さんと話していたら「今度、なんか有名なバンドにサポートで入れと言われたんですけど、大丈夫ですかね?」というので、「なんていうバンドですか?」と聞くと、「セロっていうんですが」「うわーそれはとても有名なバンドです。良い経験になると思いますよ。絶対にやったほうが良い」と進言しました。また別の日には「CMの音楽をやらないかという話が来たんですが、どうしたら良いでしょうか?」「会社はどこですか?」「グランドファンクっていうんですが」「(笑)僕が若い頃、CMの仕事でお世話になった会社です。社長から社員まで、全員僕を知ってますよ」「へえ、そうなんですね。。。。」

 

 気がつけば小田さんが、僕も知らないような多くのバンド(特に、三枝さんとのクラシカルな仕事ぶりは、ジャンル的に本業だから、とはいえ、とても素晴らしいと思います)から引っ張りだこになっている状況は、「言ったとおりになったでしょう」としか言いようがありません。しかし僕にとってこの台詞は、日常的なものなので、特に嬉しいとかではなく、また一つ、やっぱそうなったな。と思ったのみです。

 

 僕は、インパルスレーベルに送り込んだ無名時代のシミラボですら自分がフックアップしたとは思っていません。しかし、小田さんとの約束はもう充分果たような、まだ全然足りないような不思議な気分でした。

 

 

 ダメ押し、今、言ってしまうのは早すぎるかもしれませんが、僕は、冨永くんの「素敵なダイナマイトスキャンダル」の音楽を担当する際に、当初、オーケストレーショナーとしての裏方であった小田さんを、僕と連名の、共同音楽監督に昇格させました。

 

 

 一緒にスタジオに入っている間に「とてもじゃないが、小田さんにこの仕事の裏方に位置させておくわけにはいかない」と思ったからです。この映画の主題歌である「山の音」は、尾野真知子さんと末井昭さんのデュエットですが、デモテープは言うまでもなく、僕と小田さんによるものです。その時ですら、もう臨界だったのにも関わらず、それでも僕は「小田さんとスパンクハッピー」とは、全く思っていませんでした。

 

 だいたい直感だけで動き、その直感が数年後にはほぼほぼ現実になる。という僕のようなタイプにとって、「いやあ、予想もつかなかった。こんな事になるとは」という現象は、最も啓示的で輝かしいことです。

 

 小田さんと一緒にスパンクハッピーを再開する事になったのは、その、数少ない一例です。僕を博徒ではなく、策士だとでも思い込んでいる、頭もセンスも悪い、勉強不足の癖にもの申したい人々は、クラックラックスを聴き、セロを聴くことで、僕が小田さんをヴォーカリストとしてチョイスしたぐらいに思い込みたがりますが、一言、冗談言うなら、少しは笑わせていただけないとあなた(笑)。その為にも歴史の勉強をしましょう。これこの通り。

 

 

 肝心要の、「最終スパンクハッピーが結成されるまで」については、これから結構な数が予想される、二人のインタビューに譲ります。その際、ボスとODが本当のことを言うかどうかは保証できませんが(笑)、ここに書いたことは天地神明に誓って全て本当です。「完全に終わって11年も経ったことが再び始めさせる力」の意味、そして何より、小田さんの、無尽蔵の才能と魅力について、ここでは事実の1000分の1しか書いてありません。

 

 

 

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 三期スパンクスが、セリーとして「三期」と区分されるしかないのは、致し方ない事実です。しかし、今思うに、一期と二期はテストランだったとしか思えません。自分が後何年生きるかわかりませんが、このままは4万年なら余裕でミニマル。小田さんが僕の、最初にして最後の、完璧なパートナー(しかも、歳の差は23歳と、過去最大)である事は、歴史の証明力に一任します。と、ここまでお読みになって頂いても尚、小田さんが僕にとって、いかに特別な存在であるかが伝わったか、心許ありません。まあ、まだ1曲しか発表してないし、3曲しか歌ってないしね(笑)。

 

 「最終スパンクハッピー」というのは、諧謔ではありません。もう既に、スパンクハッピーは死んでいたのかもしれない。僕は、小田さんというパートナーを得て、まったく新しいバンドを作っただけなのかもしれません。小田さんが狩ったものは、最初、動けない息苦しい未熟なシャーマンたる自分の半身だった。今回、小田さんが狩った獲物がなんなのか?もう説明は野暮というものでしょう。

 

 

 どこまで言葉を紡いだ所で、ヤカラは「こんなん菊地の着せ替え人形の一人でしょ」「3人目でしょ。単に」「自分でフックアップして、熟れたら刈り取るだけでしょ」と思うでしょうし、更に悪いヤカラがこの世にいない、などという牧場の歌を奏でるほど、BOSSODはアウトドアではありません。ヤカラはヤカラらしく、愛と音楽の機関銃で皆殺しにするのでどうぞお楽しみに(笑)。

 

 

 「スパンクハッピー」という言葉は、意訳すれば、殺されて幸せ。という意味です。我々が、愛や病を、青春や幼児退行を、調性とモードを、ダンスとセックスを、モードとモードを、どう扱うかは、我々自身にすら、全貌は解っていません。冒険は始まったばかりです。

 

 

 ひとつだけはっきりしている事は、クラックラックスやセロで歌ったりコーラスしたり、DC/PRGsong-xxでキーボードを弾いたり、コマーシャルやテレビの音楽を作ったりしている、器用で多忙な、小田朋美さんという希有な才媛と、最終スパンクハッピーが擁するODは、業務上のキャラとか、大人の事情(契約問題だとか)とか、単なる遊びとかではなく、真の意味で別人なのだ。という事です(因に、ですが、レディガガも芸大作曲科です。本名はステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタですけどね)。

 

 

 そして小田さんの「解放してくれ」という、実のところまだ尽きてはいないメッセージは、「シャーマン狩り」から5年間、フックアッパーとして、プロデューサーとして、仲間として引き受け続けてきたし、今後もそうするつもりです。ODというキャラクターは、とても楽しい奴だけど、遊びじゃないです。ペルソナは、秘匿の為の道具ではない。ペルソナは、自分を解放する為の仮面なのです。

 

 僕は、フックアップする態で、小田さんの才能(と、女性性)が、ゆっくりとお花でも咲くようだベイビー。解放される事を楽しんでいただけかもしれません。パンクマルコメくんはすっかりクールでセクシーで、エレガントで、ちょっとクレージーなレディになりましたが、こういうご時世、道は茨であることは目に見えています(考えて見るに、第二期まではSNSすらなかったのです)。二期スパンクスのしがみつきが、小田さんを手軽な安パイだと思ったり、ODがインスタグラムで水着になったりしているのを、様々な意味で耐え難いとまで思っておられる純情可憐、あるいはモードについて免疫も知識もない皆様からのクレームは24時間、我々2人が責任を持って受け付けます。新しいバンドをこしらえるのに、防御の事まで考えなければ行けない、クソのような世の中に、敢えて我々は、武装して立ち上がる事にしました。

 

 

 初動の拒絶反応やアンチの吐く唾を恐れていたら、僕の人生はありませんでした。というか、恐らく、そうされたいのでしょう。僕は亡くなった母親(産みの方)と、吐瀉物や血液や、顔面の切片を雑巾で拭いて育ちました。その時間だけが、母親との交情の時間だったのです。小田朋美さんの人生は恐らく大分違ったでしょう。産まれたばかりのODの人生は、想像すら着きません。パートナーシップがどこに転がっているか、運命を読める人は発狂するしか無いでしょう。総ての脇を固めて生きる人々の、増殖と硬化を許す世界に対し、三期スパンクハッピーは、一期スパンクハッピーとして、或はまったく別のバンドとして初めて立ち上がった。と言えるでしょう。ビューティーを世界に。じゃあ続きは頼んだぜOD

 

 

 

 

 

<続きまして小田朋美>

 

 

 皆さん、こんにちは!今日はスパンクハッピーについて書いちゃうじゃないスか~!とすっかりOD口調が定着していますが、今日は小田朋美としてスパンクハッピーに関して(菊地さんと同じく、おそらく最初で最後の)真面目な文章を書かせていただきたいと思います。

 と宣言したはいいものの、ネットに長文を書くのは凄く久しぶりなので、うまく書ける自信も無く、所信表明を書くと決めてから固まったまま一週間ほど経過してしまっている私ですが、私にとって特別なユニットである<最終SPANK HAPPY>に対しての思いが皆さんに少しでもお伝えできればいいなと思っています。

 

 

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 菊地さんとの出会いの経緯は、菊地さんがたっぷりと書いてくださったこともあり、詳述は譲らせていただきますが、まず、私が菊地さんと初めて本格的に音楽活動をさせていただいたプロジェクトであるDC/PRG(加入当時はdCprG)、そして『シャーマン狩り』の共同プロデュースについて少々(既にちょっと、ODっぽいですかね・笑)。

 

 DC/PRG(当時のdCprG)に加入したことは、当時の私にとって大きな革命でした。歳の離れたふたりの兄の下に末っ子の妹として生まれた私は、誕生時から年上の男性コミュニティの中に新参者として現れたという宿命のせいか、年上の男性に仲間として認められたいという欲望が強いように思うのですが、そんな私の欲望を知ってか知らずか(ご存知なかったと思いますし、ご存知だったとしてもそれが理由とは思いませんが)、菊地さんは私をDC/PRGの仲間に加えてくださいました。私は大先輩である素晴らしい音楽家の皆さんに囲まれ、自分の知らない音楽言語や価値観のなかに飛び込むこととなり、音楽的収穫はもちろんのこと、再び新参者の妹として新しく生まれたような気持ちでした。

 

 

 同時期に起こったもうひとつの革命はファーストアルバム『シャーマン狩り』です。制作当時、私にとって強く印象的だったことがひとつあるのですが、それは、菊地さんが提案してくださった数パターンのタイトル案のなかに「ファロス願望」という言葉があったことです。当時の私はファロスという言葉さえ知らず、急いでググるような案配でしたが、意味が分かったところで、私にファロス願望なんてあるかなあ…言われてみればそんなこともあるような気もするなあ…と、ピンと来ていませんでした。でも、なんだか見透かされてる感じがして悔しいなあ、、、、と、ちょっと妹らしい(?)反抗心みたいなものを滲ませつつも、音楽性だけでなく私の人間性まで理解してくださったうえでアルバム作りに関わってくださる菊地さんに大きな信頼を寄せていました。 

 

 私はずっと、自分の知らない景色を見たい、遠くへ行きたい、旅をしたいと思いながら音楽を続けてきましたが、それは、誰よりも自分を縛ってしまう自分自身から解放されたいという願望から来ていると思います。と、同時に、縛られることでこそ得られる自由もあるのは当然で、縛りがなければ言語も扱えないし、音楽も成り立ちません。ごく当たり前なことですが、拘束と解放、突き詰めれば生と死、という矛盾の塔を螺旋階段のように登って昇華させていくことが、表現することだと私は思っています。

 

 『シャーマン狩り』で、私はその螺旋階段をひとつ登ることが出来ました。自分のオリジナル曲にはどれも自信と愛着を持っていたものの、同時に解放しきれない、軽やかになれない自分も感じていたのですが、そこに菊地さんが出してくださったアイディアが加わったことにより、私はひとつの解放を得ることが出来たのです。それは音楽面はもちろんのこと、タイトル案やアートディレクションに於いてもです。フルヌードという過激なジャケット案に対して抵抗が無かったのは、私が脱いでもエロくならないという自負があったこともありますが(笑)、何より、フルヌードという表現が性的なイメージを超えた《解放》の具現化であると思ったし、それは菊地さんの意図でもあると確信したからです。

 

 そして、その『シャーマン狩り』制作時に、私は初めて<スパンクハッピー>という名前と出会います。菊地さんがアルバムの新たなコンテンツとしてカバー曲を提案してくださることになり、洋楽含めた十数曲が候補に挙がっていましたが、その時やりたいと直感的にピンと来たのは、スパンクスの「Angelic」(と、小池玉緒さんの「鏡の中の十月」)でした。ちなみに、曲を聴いた最初の感想は、「あ、アーバンギャルドみたいな男女ユニットだ!」ということと、とても素敵で魅力的な曲だ、ということでした。おふたりのヴォーカルはもちろんのこと、間奏で突然転調したりするトラックも、退屈そうなのにキラキラしている歌詞もすごく魅惑的で、私はその時すでにスパンクスの魅力に惹かれていました。もちろん、まさか自分が後にスパンクスの一員になるなんて思いもせずに。

 

 

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 『シャーマン狩り』の後も、菊地さんは私をことあるごとに現場を下さり、私の知らない鮮やかな景色を見せてくださいました。「音楽の父・バッハ、音楽の母・ヘンデル」なんていうキャッチフレーズがありますが、私の今までの音楽活動(学生時代を除く実践的音楽活動)に於ける両親がいるとするならば、母は二代目高橋竹山さんです。竹山さんは津軽三味線奏者の草分け的存在である高橋竹山さんの二代目であり、女性から見てもかっこいい女性です。6年前から私をステージで使い続けてくださり、全国津々浦々に連れてってくださっており、誰より私を演奏家として鍛えてくださっている方です。

 

 そして父は菊地さんです。有り難いことに、CRCK/LCKSceroのサポート、映像音楽等々、私は現在様々な場所で音楽活動をさせていただいていますが、いまの私があるのは、ペーペーのくせして生意気で目つきの悪い少女だった私を、実践の現場で育ててくださったおふたりのおかげです。

 

 

 

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 スパンクハッピーを一緒にやりませんか?と菊地さんが持ちかけてくださったのは、今年の初めのことです。菊地さんのアイディアは私にとっていつでも新鮮で魅力的なものであり、一見突飛な考えに思えるこのお話も、驚きはしたものの、不思議と抵抗はありませんでした。ただ、ハラミドリさん、岩澤瞳さんという強烈にして非常に魅力的な女性ヴォーカルの後釜という重責に対して、全く不安がなかったと言えば嘘になります。ですが、考えてみれば、いつだって人は誰しも誰かの後釜なわけですし、スパンクスの音楽性が第一期、第二期、と全く異なるものであり、最終である第三期も全く新しいイメージでデビューするのだという菊地さんのご説明があったこと、そして何より、これまで菊地さんにフックアップしていただく流れで引き受けていた仕事とは趣を異にし、とうとう、対等な立場、ユニットという形態でガッツリ組ませていただくことにより、とても面白いものができる、豊かな景色が作れる、という確信のもと、快諾させて頂きました。ついつい丁寧に書いてしまっていますが、正直、とにかく物凄く嬉しかったです(いろいろな意味で)。

 

 

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 改めて言うのも野暮なことですが、<OD>は菊地さんから与えられた、ひとつのペルソナ/キャラクターです。#me tooが叫ばれるこのご時世、図式的に女性が年上の男性に操られているように映るのは、もしかしたら人によってはマイナスなイメージを持たれるかもしれません(もちろん、言うまでもないことですが、私が菊地さんに強制させられているようなことは何一つとしてありません。恐らく菊地さんは、男女問わず、こうして仲間の力を引き出していると思います)。ですが、私達が未だかつて何かに操られ、何かを演じてこなかったことなんてありません。物心ついて社会との関わりを持ち始めた頃から、子供を演じ、女を演じ、男を演じ、友達を演じ、学生を演じ、恋人を演じ、仕事人を演じ…と何でもいいけれど、私達は何かに操られ、演じながら、縛られながら、自由を求めて生きている、、、、、なんてよく聞くようなフレーズを私が今さら言うことでもないでしょう。私は知らない間に、小田朋美を演じ、小田朋美に閉じ込められてきたと思います。菊地さんが「ラストコーション」という映画を論じたとき「いかなる愛も、それが愛である限り、演技である」というコピーに感心していました。菊地さんがフットワーク軽く、魔法をひょいひょいかける秘密の手帳みたいな物がフロイトだとしたら、きっと菊地さんは種も仕掛けも解答も、その手帳に書いてあるのを知っての上で、更にその先にある状態を見据えて賭博師みいたいに生きていると思います。

 

 私は高校時代、作家・遠藤周作が<狐狸庵先生>というペンネームで書いていた、彼のシリアスな作品群とは対極をなす、軽妙なエッセイがすごく好きで、それ以来私はずっとペンネーム/ペルソナに憧れていました。遠藤周作に於ける<狐狸庵先生>は、彼にとって息抜きの遊び等ではなく、彼を解放させ、彼の創作活動を活性化させる重要な役割を担っていたと思います。<OD>は、私にとって憧れの<狐狸庵先生>であり、私を熟知している菊地さんが私に与えてくださったひとつの発明であり、解放の道具であり、そしてその道具によって私は改めて自分と向き合い、自分を再獲得することが出来ると信じています。

 

 

 

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 私は、自分が携わるあらゆる音楽に対して、その時持てる力を全て込めて接していますが、BOSSODから成る<最終スパンクハッピー>は、私にとって、自分自身を再発見し解放する最も重要なプロジェクトであり(それはキャラクター面だけでなく音楽面に於いても)、その意味に於いて、私が小田朋美として活動しているどの活動とも別次元にある、特別なユニットです。スパンクハッピーの音楽的収穫は、巡り巡って、小田朋美に返って来ると思っています。

 

 こんなに長い間お世話になりまくっておきながら(お世話になりまくっているからこそかもしれませんが)、どうしても照れがあって、公の場で感謝を述べることはあまり無かったのですが、この場を借りて改めて、私の音楽的兄であり、父であり、そしてこの度パートナーとなった菊地さんに最大の尊敬と感謝を捧げます。そして、その尊敬と感謝、そして何よりの信頼を燃料に、<最終スパンクハッピー>という船を漕ぎ出せることを、心から楽しみにしております。ってボス〜。自分、文章苦手なのに一生懸命書きましたけど、こんな感じで大丈夫スか〜?早く可愛い衣装で歌ったり踊ったり、パン工場に行ったりしたいデス!!!

 

 

BOSS)オーケーOD,久しぶりの長文で、ちょっと緊張してたみたいだが、なんのなんの。よく頑張った。パン工場に連れてってやろう。佐世保かプラハあたりのな。それでは諸君、我々のクソ長い無駄話はこれで終わりだ。我々に最初にロング・インタビューをオファーしてきた奇特なリアルサウンドのインタビューページはコチラ、我々オフィシャルインスタグラムはコチラ、twitterの公式アカウントはコチラだ。ご存知の通り、かっぱらいや泥棒やパチもんが横行するヤバい世界だ。必ずオフィシャルチェックしてみてくれ。最終スパンクハッピーを消費しつくしてくれ給え。ではアディダス!まちがえたアディオス!!