2016年

10月

14日

無料世界から再撤退します

 

 という訳で、今年の誕生日にアップしました「学歴詐称は、してないです(笑)」にありました通り、このテキストを最後に、無料の世界に文章を書く事から再び撤退します。

 

 「撤退」というと、<強い意志を持って完全に消える>という感じですが、変わらずライブやイベントの告知は行います。当コンテンツ「N/K blog」は、「学歴詐称」「ハピマテのCD」「デューク本郷」のみ残してしばらく掲示した後、閉じます。

告知などに関しましては、今後はフェイスブックに不定期で掲載いたします。

 

 

1)「ビュロ菊だより」*有料ブログマガジン「ビュロー菊地チャンネル」の中のブログ連載(偽インスタグラム) 

 

2)「リアルサウンド」*無料の音楽/映画批評サイトで、連載「菊地成孔の欧米休憩タイム~アルファヴェットを使わない国々の映画批評」と題して、主に日本映画と韓国映画の批評をやっています。 

 

3)ウエブ版「花椿」*資生堂さんの、伝説の冊子のウエブ版ですね。「どうしたいか解らない病の処方箋」と題して、「女性」に関するエッセイをやっています。

 

 と、しばらくこの3つのみとなります(紙媒体の連載は他にいくつかあります。また、ウエブ/紙、共に、ワンショット寄稿に関しては、前述「フェイスブック」に告知させて頂きます。また、「しばらく」というのは、他のウエブ媒体で新連載が始まるからです→年末当たりから)ので、宜しくお願い致します。

 

 以後、撤退までの流れを書きます。大して新しい話は無いですけど。

 

 

<兆候>

 

 ワタシが、「おっかしいなあ、ヤバい世の中に成って来たぞ」と直感したのは、なんだかんだで5~6年前でしょうか。きっかけはフェイスブックです。

 

 

 とうのも、友人がスマホで(というか、友人はほぼ全員スマホですが・笑)SNSをいろいろやってまして、中でもワタシの興味をひいたのは、フェイスブックでした。

 

 

 というのも、共通の知人がやってまして(これは5~6年前の話しで、「共通の知人」はたった1人だけでした。今では言うまでもなく「オレが知ってる奴の事は、全部ダチのスマホ借りれば見れる」という、情報共有の究極形に近い状態になっているのは、言うまでもありません)、我々はそれを見て、毎晩ゲラゲラ笑ってたんですね。

 

 

 この<笑いの質>が、実のところテーマの総てでして、非常に微妙で複合体的な意味を持っていました。

 

 

 ナンセンスの側面、嘲笑の側面、驚異の側面、etc,etc。そして何よりも大きかったのは、「新しい」という感覚です(今ではもう定着文化として全然新しい感なくなっちゃってますけど)。

 

 

 一時期それは、ワタシにとってのポストモダン文学であり、社会学研究であり、言語学研究であり、ニューメディア研究として、総合的なエンターテインメントの最上級として、毎日ゲラゲラ笑いながら読み、ユーチューブを越える、ワタシを熱狂させるネットコンテンツになりました。

 

 

 勿論、そいつは全然悪い奴でもダメな奴でもないです。非常に誠実で、多少の山っ気があって、ロマンチストで、友情に厚いナイスガイです。

 

 

 ただ、「お前、文章書くの?っていうか、読み書きするんか?ビッグコミック・スピリッツと仕事のメール以外」という人だったんですね。

 

 

 これが凄かった。文章のてにをは、誤字脱字といったレヴェルを遥か成層圏の臨界を見下ろして、天空高く飛び上がる、完全な日本語のパンクでした。

 

 

 今でも暗記している名フレーズが山ほどあるんですが、書くと誰だか解っちゃうんで書きませんけど、ワタシは涙を流して笑い、それを音読して腹を抱え、更に音読して床を転げまくりました。それは、啓示的と言って良いほどの斬新さがあり、音楽のパンクの時と、本当に同じでした。

 

 

 そしてワタシは、友人と(因にこの友人は文学者です)「これからさあ、こういう文章が、日本人が書く一般的な文章のアヴェレイジに成るんだろうな」「恐ろしいけど、そうしか考えられないよな」と言っては、最後に「どうしたら良いんだろう。オレたち(笑)」と、顔を見つめ合って笑いました。恐ろしい事だけど、まあ、まだ先だ。

 

 

<定着>

 

 

 しばらくしてその遊びは、あらゆる意味で水平化し、まあつまり、飽きて、ワタシはまったくしなくなりました。ただ、文学者であり、自らもSNSを盛んに(今はどうだか知りませんが)やっていた友人は、「来るべき日」の到来が、思いのほか早かった事に、どう対処して良いか解らない、といった感じで、端的に言って、余り楽しそうには見えませんでした。

 

 

 誤解なきよう、ワタシは、パロール(この際、「音楽も含む」とか言っちゃいますが)によるスラングならば、全然アリの人で、「最近の若者の言葉は乱れている。けしからん」等と言った憤懣は53年間、1度も持った事はありません(言うまでもなく、「嫌いなスラング」はスラングの中でも半分ぐらいでしたけど。それでも)。

 

 

 ですけど、やっぱりネットが凄かったのは、書き文字のスラングが生じた事ですね(これも厳密に言えば、大衆小説がスラングを作る事は、恐らく明治時代からあったでしょうから、ネットがニューメディアである側面は、ココではないんですが)。

 

 

 恐らく、ですけど、その核分裂/核融合の力量が最も高かった地域は「2ちゃんねる」だと思いますが、どんな地域にも存在する地域の特色として、嘲笑、自嘲、呪詛、といったトゥイストあるいはネガティヴな側面が強すぎて、まあ、激辛料理、癖の強い料理みたいな意味で、誰でもバクバクは喰えない。それでも局所的なクオリティは最高の、ある意味のエリートだと思いますね。2ちゃんねるは。

 

 

 フェイスブックや、先行したミクシィなんかは、(まあ、2ちゃん当社比として)平穏に、ハッピーに、平和志向、ポジティヴ志向だったのでバクバク喰えた。これがヤバくて、綺麗に良い事書こうとして、その文体がパンクなんで(笑・パンクに対する侮辱ではないですよ念のため)、もう痺れちゃった訳です。「ヤバいよ。みんな書き始めたよ。ほんの20年前は、誰も文章なんか書いてなかったのに(笑)」。

 

 

 最近、ゾンビ映画が何度目かのブームを迎えていますが、ワタシは、今回のそれには、潜在心理的にインターネット絶対関係あると思ってます。ワタシは自分のラジオ番組の最初に、ある程度の決り文句を含めた口上をシーズン(半年)ごとに入れ替えるんですが、先頃終了したばかりのシーズン11には

 

 

SNSで読み書き憶えたゾンビ共の島から、あなたを救出に参りました」

 

 

 という一節を入れてみました。陰性反応が出るか、陽性反応が出るか?陰陽入り乱れた高沸もしくは鎮静が起こるか?結果、このシーズンは、過去の全シーズン中、2~3番目に数字を穫ったシーズンになりました。

 

 

 「おめえの文章だって全然パンクじゃねえかよ高卒の癖に高尚な文章書きたがるスノッブ野郎」とか「そもそもテメエ自身が<ブログ発の文筆家>の元祖だろ?」と言われれば、答えは完全なるイエースであります。しかし、フロイドによれば、問題は質ではない。量なのね。ゾンビが1人だけで歩道橋の下で静かにしていても、ゾンビ映画としては珍品でしょう。遠慮会釈無く言いますが、ワタシはよしんばパンクだとしても、後に商品化される程度には質が高く、希少価値だったんですよ。ただそれだけです。

 

<震撼>

 

 

 一番ワタシが恐ろしい目に遭ったのは、こうした事を巡る考えの果てに、一度無料世界から出たんですよね。その時は「ゼロ円ファン」というキャッチコピーみたいなものを掲げて抜けたんですけど、やっぱそのうち、有料の方が2000人規模の、要するにファンサイトみたいに成って来たので、やっぱストリートに出よう。ということで、再び無料世界に戻った、その直後の「<セッション!>騒動」だったんですよね。

 

 

 町山さんが怖かったんじゃありません。保安官を虐めるのは超楽しかったです。「セッション!」を、震えるほどの傑作だとする人々がいっぱいいたことは、まあちょっとは恐ろしかったですけど、そんなもんは好みですからね。「好み悪いよな。斉藤工」とは思いましたけどね(笑)。

 

 

 ただ、ワタシは、ドラッグならば、としますが、高級品が好みです。脱法ハーブよりはコカインが良いですね。それに、ワタシ自身の表現だって、比べる相手によってはジャンク・レヴェルとジャッジする事も可能でしょうから、とにかくジャンキーに非はありません(というか、もう一度フロイドが出て来ますが、問題は質ではなく量なのね。コカインがパケ500円で、そこらの学生にも楽々手に入ったら、それは高級品ではないですよね)。

 

 

 怖かったのは、ワタシの所に大量に寄せられたディスり、そしてチアーのメールですら、そのほぼ総てが、ワタシの文意と全く違った読まれ方をしていた事なんです。「もうダメだ。もうオレの文章は伝わらない」という、<薄々解っていた事>を実感する。というのは物凄く恐ろしかったです。

 

 

 「そんなもん、誤読が嫌だなんて幼稚な事言ってんじゃねえ。お前だって誤読には価値があると言ってたじゃねえか」と言われれば、アブソリュートリー、イエースであります。ただ、全部読んでくれないんだもん。長いから(笑)。三度目にも成ればテンドンだとお気づきになるでしょうが、フロイドが出て来ますが、問題は質じゃなくて量なんですよね(笑)。

 

 

 「伝わらない」に加えて「読み切ってもらえない」という事です。このペア恐ろしい。凄まじい虚無感と、危機意識ですね。「やっぱダメダメ」と思いました。あんときは。この列島国家はZ-アイランドだ。やっぱ。

 

 

 ですんで、いくらワタシが学歴詐称について書こうと、ハピマテについて書こうと、デューク本郷さんこと山口雅也さんについて書こうと、総てをそれでアップセット出来るなんて、少ない毛の先ほども考えてないです。どんな文字列を、どれだけ重ねようとも、バカも祟り神も呪い虫もいつまで経ってもいなくならないんで、というか、こんなのはフロイド以前だけれども、呪ったり祟ったりする事がその人を支えている場合、呪わせてあげた方が人助けですよね。

 

 

 ですんで、今回の再撤退への幕引きのシリーズは、総ては自己満足といいましょうか、「言っとくべき事を言っとこう。まとめて」というだけです。

 

 

<再震撼>

 

 

 とまあ、ネットによる言語感覚の変容、ネットそれ自体の合法ドラッグ性、といった話も、ワタシが言い出した頃は滅多打ちされたけれども、今では既に一般的な認識であって、まあもうどうでも良いかな。と漠然と思っていたんですけど、それから幾星霜、この歳に成って、ここまで、と思うほど、メディア観について根底から揺さぶられる様な本を読んじゃったんですよね。

 

 

「誰が音楽をタダにした?」(スティーブン・ウィット著/関美和訳/早川書房(原題の逐語訳は「如何にして音楽は無料に成ったか」)

 

 

 こっれはヤバい本です。今年一番ですね、ワタシにとっては。「新刊を何度も読み返す」なんて経験は本当の久しぶりです。

 

 

 先ず、筆者が述懐するんですね。「僕らは、海賊盤世代だ」と言って始まるんですが、現在40に差し掛かろうという彼は、ナップスター以降の、海賊盤のダウンロードによって、持っているPCのメモリーをパンパンにし続け、「それが、僕らにとってのサブカルチャーだった」と言うのね。ここが凄い。

 

 

 そして、その音楽はもう「一生かかっても聴ききれないので」「どれを聴いて良いかわからない。というのが唯一の問題だった」と言う訳です。

 

 

 ところがある時、彼はふと思うのね。「この、インターネットの中で流通する海賊盤の出所は、本当に、無関係な個人の集積なんだろうか?」と。「ひょっとして、大規模で組織的なものなんじゃないのか?」と。90年代の段階で(因にコレ、サスペンス小説みたいに壮大でドラマティックなんですけど、全部実話ですよ)。

 

 

 そこでプロローグが終わるのね。そうすると、いきなり第一章が、mp3の開発者の話になるのね。jpegが後ろ盾についているmp2との熾烈な商品化戦争の歴史を、これでもかこれでもかと描いて行くの。第一には、mp3が産まれない限り、「音楽がタダ」になる未来は来ないからね。

 

 

 これに「組織的な海賊盤アップロードの集団」「70年代からトップアーティストを産み続けた天才プロデューサー」「それを負い続けるFBI(トップはベトナム系)」といったアザーラインが、パラレルにその歴史を綴り、大河の流れの様に「音楽がタダになった現在」に向けて、ひとつに成って行く訳。

 

 

 mp3の開発者なんか、アインシュタインみたいな感じですよ。最後まで彼は、違法アップロードに対して徹底的に反対なんだから。自分がライフワークとして開発した技術が、音楽産業という巨大な文化を潰してしまいかねない打撃を与える恰好に成る訳ですからね。

 

 

 脇役にジョブスまで出て来る(ここも凄く面白い)、「デジタルコンテンツの無料化」といった、誰でも知っている現在に関する局所的なドキュメントではなく、「インターネットを統一する国際法が永遠に制定されなさそうである事」「そもそも、このままで良いのか?」といった、インターネット社会論の本として、先行する「デッドヘッズに学ぶ」「FREE」「21世紀の資本論」等々よりも数百倍おもしろく精緻で、音楽家であるワタシだけでなく、読む人の誰をも揺さぶる、恐ろしい本です。「元々レコード盤なんて、音楽っていう芸能から見たら、宣伝用のオマケみたいなモンだった訳よ。フェスの売り上げは毎年4倍ずつ膨らんでる。音楽は、<レコード芸術>という20世紀文化の側面が失われ、原点に戻っただけですよ」とかいって、イージーに一刀両断させてくれないの。

 

 

<再決断>

 

 

 とまあ、そういう感じで、ワタシは「無料で文章を読ませ合う」ニューフロンティアから一旦逃走しますが、言うまでもなくエゴサによる悪評や曲解が怖い(もっと怖いのは「悪評に慣れてしまう」こと)とか、単純に金が欲しいとかいった古代の理由に依拠する行動ではありません。悪口や批判、賞賛や欲情、誤解や曲解は、インターネットどころか、カラーテレビが普及し始めた頃から50年以上ボコボコに受けてきつづけてるし、金なんてまたヒモからやり直す自信が満々にあります(笑)。

 

 

 ワタシが文筆家に成ったのは、文学によって人生というもの、人の生きる意義という物を追求しようとか、誰もが楽しめる痛快な物語を書きたいとかいった動機によるものじゃないです。ライブの告知に、チャームとしてくっつけた物が認められただけであって、つまり戦争テクノロジーが出自ではない訳よ。音声圧縮/解凍の技術だって、内部で轟音が鳴っている爆撃機に、大統領からの原爆投下命令が、なるべく正確に、明瞭に伝わる為の物だし、そもそもコンピューター自体が、弾道計算用に開発された戦争テクノロジーなのは誰でも知ってますよね。言語も文章も、殺傷能力があるのは誰でも知ってますよね。

 

 

 ワタシはそもそもの出自が褒められたもんじゃないから、せめて書く物や音楽は、生かし、潤わせて、平和という、絵に描いた餅ギリギリの理念により、生きる喜びという、うっかりするとポケットの穴から落ちてしまうものをがっちり握り直させる為にありたいです。その為に、一時退散します。誰もがいくらでも好きなだけ文章を書くことは、表現の自由なんかじゃない、表現の制限である上に、電力とリビドーの地球規模での無駄遣いですよ。それではまた。