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11月

2011

アルバム制作快調/立川談志死す

 


 本日は一日中、ユニヴァーサルのスタジオでDCPRGのアルバム編集作業をしておりまして、エンジニアの赤工(あかく)くんと高見Pと3人でスタジオに籠りきりだったのですが、作業中ふと高見Pが「デギュスタシオンを全員外人でやりませんか次は?」と言い放ち、凄いなあやっぱり天才の考える事はと思うばかり、しかしそれ以上に「そういえばアレ、えーと再来年になったらもう10周年よ」とワタシが言ったら、赤工くんも高見くんも「えええもうそんなに経ちますか。はっえー」と、中年が年がら年中いう台詞ですね、これを目を見開き、互いに向き合いながら言ったりなんかして、一気に天才から凡庸になる訳ですが、要するに我々3人が知り合い、最初にチームでやった仕事が「デギュスタシオン・ア・ジャズ」でして、あな懐かしや、時が経つのは早いもの、などと、ましてや秋口(というか、最早冬にも似た、いずれにせよ発狂した季節ですけれども)に言うなどこれぞ凡庸の上乗せ。しかし今年という年は、ワタシにとって、恐らく震災が無くても区切りの年になったのではないかと思います。


 何せファースト・ソロアルバムのイメージアイコンとセカンド・ソロアルバムのイメージアイコンがどちらも地上から消え(レストラン「エルブリ」は今年の10月に閉店、女優エリザベス・テーラーは震災直後に死去)、あろう事かクラブハイツに続き九段会館もああした形で任務を終えたと思いきや、ブルーノート東京と年間ブッキングの、インパルス!とアルバムの契約をしており、気がついたら個人事務所を立ち上げている訳です。こうして自らキーパンチしながら「大変な年だねアンタ」と声の一つもかけそうな勢いですが、まあこれまた凡庸なる哉、本人にそうした感慨はしとっつもありませんで、アタマん中は今週の夜電波の構成と、今夜これから何を喰うかだけという有様。


 思い出すのはヨーロッパの国境線です。90年代から00年代初頭にかけてヨーロッパを中心にサーキットしていた時代、特に、あの最も過酷と言われるワゴン車移動でのサーキット(3回やりましたワタシは。ワタシは師匠筋が山下洋輔であるという事実からツアー日記のエッセイをあまり書かない様にしておりますが、あれはやはりエッセイの題材のためにあるとしか思えません。文才さえあればワンサーキットで3冊いけるでしょう)の最中「はいいまボーダー越えたぜ」とドライバーが呟き、ひゅーとかいえーとか、或は遠くを見つめながらふふふとか言うのは初日のみでして、二日目からは、これはもう麻酔でも嗅がされたかね。という感じで一切なにも感じなくなります。「はいベルギーに入ったよ。まだしばらくフランス語つうじるね」「タバコある一本?」なんつって。

 

 そんな中、立川談志氏が亡くなりました。ワタシは誰かが死ぬとサイトに追悼文を書いて、それがいちいち面白いから追悼文だけの本を出さないかと出版社から話が来るというタチの悪い男で(その割には、浅川マキさんの追悼文を集めた本「ロング・グッドバイ」からは、内容がけしからんとハジかれてしまいまして・笑・まあ、そういう感じなんですね)、文筆家の端くれとして我ながらそれもどうなんだと思わないでもない、といった所でしたが、とにかく人にはいきなり死ぬ人とじわじわ死ぬ人がいて、立川氏は典型的な後者でしたので、訃報を受けても「ええ??!!」というよりも「やはりとうとう」という心持ちの方も多かったのではないでしょうか。ワタシもそうでした。


 しかしこの「やはり」というのはワタシにとって(だけではないと思います)二重でして、というのもワタシ最初にこの人をテレビで観た時——5〜6歳だと思うんですが、沖縄政務次官騒動よりも前ですーーガキの勘という奴ですね「ああ、この人は今凄く嫌われているな。頭が良すぎ、欲求不満やアンビバレンツが強すぎるのだから仕方が無い。でも、きっとやがてこの人は、本当は良い人で、みんなに愛される人だという事に成って死ぬに違いない」と、言葉に翻訳すると大体こうした具合でしたんで、この「やはり」は数十年がかりだったという訳です。


 ワタシは多くの人々と同じ様に、昭和には故人が危ない発言や行動をするたびにハラハラしたりイライラしたりしていたのが、同じ事が平成になるとホッとするようになりました。完全に愛されたら死ぬぞ談志。自殺願望さえ押さえつけられたままで。と思っていたからでしょうか。しかし、ホッとしたりする等という事自体、そもそも愛する外野の営為であって、つまり結果愛している訳ですから、こんな絵に描いた様なアンビバレンスはありません。アンビバレンスが一貫性を磨き上げた人生。などとまとめのようなコメントは、故人に対してだけでなく僭越に過ぎるというものですが。


 サーキットで国境線を越えた気分です。フランスに入ったときから、ベルギー国境をまたぐ事は解っていた。そうした気分ですね。上手い説明に成っているかどうか、甚だ疑問ですけれども。これが、志ん朝亡く、小さん亡く、円楽亡く、そして噺家であらずとも、青島亡く、植木亡く、谷啓亡く、平岡正明亡き世だからなのか、ワタシの内部に何らかの変化があったか、その両方なのかはよく解りませんが。


 故人の人生の、奇妙であり、また典型的でもあった苛烈には惚れ惚れする想いです。あのやんちゃで利かん坊な輝く目こそは、苛烈さの中で眠れない目の輝きです。オマエそれはアクロバティックすぎねえかという誹りは承知で言いますが、マイルス・デイヴィスの目と故人の目はちょっと似ています。両方とも、粋なスイートミュージックを愛しながら、表現は苛烈でした。故人が死ぬまで認める事の無かったコント55号の坂上二郎氏が震災の前日に亡くなり、故人が震災の直後に気管切開の手術を受けて声を失うーーつまり、立川談志でなくなってしまうーーという凄まじい剥奪を受けたまま8ヶ月生き、一門にもその死を隠したまま亡くなった。という事実の余りの苛烈さは、熱すぎるサウナにでも入った様な気分にさせられます。苛烈な人生だった人が死ぬと、お疲れさまでしたと言いたくなる所なのに、まったくそういう気が起こらない。享年75、我が国でもっとも日常的な放射能の値が高かった1963年に真打ち昇進、2011年に喉頭がんで没。出来過ぎな社会批判でもあり、ぜんぜんそんな事とは無縁でもある。冥福を祈るのは無粋というものでしょう。それはただただ、故人に複雑に屈折させられた、愛があるのみ。