23

9月

2011

大久保清朗氏との対話

 

 

 今回は、議論の公開で、映画批評に関するものですので、映画及び映画批評に興味が無い方はスルーされるのが賢明ではないかと思われます。映画研究家であり、「キネマ旬報」のレギュラー執筆者の一人である、大久保清朗氏との間で交わされたものです。

 

 最初の断っておきますが、いわゆる炎上的な、喧嘩の類いではなく、極めてジェントルな物ですので、フラストレーションからもめ事を探している様な荒ぶる方々に於かれましては徒労に終わりますので、そのむねご了承ください。

 

 

 

 きっかけは、ワタシが「キネマ旬報」の連載(「読む、映画」)の第四回目として執筆した(因に初回が「イブ・サンローラン」二回目が「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」三回目が「エッセンシャル・キリング」)、ロマン・ポランスキー監督の「ゴーストライター」への批評です。以下、全文を掲載します。

 

 

 

 

 ゴーストライター評


 

「ラスト30秒のリビドー」

 

 

 (ネタバレあり注意)。「チャイナタウン」に匹敵するポランスキーの最高傑作であり、ポランスキーが78歳にして自己更新を果たした。という賞賛が、本作への多数派的な声である。多数派的な声が常にそうである様に、この評価は、基本的には間違いではない。巷間「変態」という枕詞が冠されがちという、名誉なのか不名誉なのかいまひとつ解りずらいクリシェに固定されたままのポランスキーだが、もしここで言われる「変態」が、幼女との性交によって国外追放の憂き目に遭った。という一件によって象徴されているのであれば、確かに自己更新は果たされていると言える。

 

 本作には幼児性愛的なリビドーは暗喩や昇華のレベルでもまったく検出されず、むしろ最近の流行とも言うべき、中年性愛的なリビドーの噴出が一度だけ行われる。しかし、オリビア・ウィリアムス43歳とユアン・マクレガー40歳の、ピーピングを思わせるカメラ位置から捉えられたセックス・シーンは、第一には物語の中で償却され(二人のこの関係はまったく後を引かない)ており、第二にはそれが、軽いトレンド(中年同士のセックス/男のが年下)を消化している感によって、過度なエロティークさへの期待を、予め封じている(いくらでも脱ぎそうなキム・キャトラルは脱がないし、観客は期待すらしない)。つまり、少なくとも性愛表現に関しては<変態性>は全くない。

 

 しかし、民が認知した「変態」という語の意味が<シャロン・テート殺害事件の痛ましさと、それに対する背徳的な欲情の抑圧と、それに触れられずにいるというストレスのはけ口として、幼女姦事件に「変態」の汚名を集中させた>という側面を持つ、とする限りに於いて、ポランスキーの「被害妄想マゾ」とでも言うべき「変態性」は、殺害事件直後の「マクベス(71)」以降健在である。

 

 しかし「なるほど、国家機密は怖い、というストーリーだからな。そりゃ被害妄想的だろうさ」というのは早計である。本作はそうした、余りにあからさまに被害妄想的な物語であるが故、そして、破綻無く素晴らしい脚本と、アカデミー賞に「景観撮影賞」という部門があったら間違いなく受賞したであろう、美しく沈んだ曇り空によって、ラスト30秒まで、全く被害妄想マゾ的なリビドーを持たない。ポランスキーは自己更新したのだろうか?ピアーズ・ブロスナン、キム・キャトラル、ユアン・マクレガーと、実に主要登場人物の内の75%が自己更新(鬱陶しいセルフ・イメージの払拭)に成功したのは、その力の恩恵に預っているのだろうか?

 

 しかし、それは最後の最後に、射精の様にして本作を突き破る。原作には無く、撮影中にポランスキーが思いついたというラスト。主人公は、物語上の必然性に背いて衝撃的に殺される。彼を轢き殺す車の加速度は、ナイフもしくはペニスを持つ手の速度そのものであり、ポランスキーの、この一瞬の歓喜は、観客に同情や悲しむ余地を与えない、マゾヒスティックな興奮に満たされた観客達は、ポランスキーが「変態」である。というテーゼを、大喜びで上書きしながら、重厚で深い感動に浸るのである。

 

 

 

 

 この短文に対する反応のひとつに、ツィッターで以下のようなものがあったという報告を読者の方から頂戴し、そして、そのつぶやき主が「キネマ旬報」執筆陣のお一人である事から、ワタシは最小限といえども議論の必要性を感じ、以下をキネマ旬報編集部に送りました。ワタシは今まで期限限定でしかツィッターをしたことがなく、現在はアカウントも無く、日常的には読んでいないので、ツィッターの画面のみから確実にEメールが届くアドレスを探す事が困難だったからです。

 

 

 


 

 

キネマ旬報編集部様

 

<菊地さん吐き気を催されてますよw>という密告のメールがあり、そこにあるURLをクリックしたら、ツィッターにて以下の様な書き込みがありました。

 

 

 <『キネマ旬報』最新号で、菊地成孔、椎名誠、巽孝之が『ゴーストライター』評書いてる。あらすじなぞってる椎名評は論外として、「(ネタバレあり注意)。」という一句から始まる菊地評ひどすぎないですか。ゴシップ的なこと並べて、最後は下品なフロイディズムなんか持ち出して。吐き気を催した。>

 

 

 いまどきつぶやきひとつに目くじらを立て、議論したりする世の中でない事は重々承知ですし、毎日の様に誰かが誰かの悪口を書いているであろう世界の中で、ワタシが奇跡的に例外として、天使かなにかの守護を受け、悪評をひとつも書かれないまま安全に生きている筈が無いという推測のもと、極端に酷いもの(所謂風評被害に適合する、ビジネスに影響が出兼ねないもの)以外には一切反応しておりませんが、そしてあのつぶやきが、ワタシの風評に被害が出る様な重大で深刻な物であるとはとても思いませんが、若干特殊な事情があります。


 これの書き手は、同じキネマ旬報誌上で、星付けのレヴュー連載のレギュラー執筆者である大久保清朗氏です。念のため最初に強調させて頂きますが<ある雑誌に連載を持っている者は、他の連載執筆者の文章に対して、別のメディアで悪評を書いてはいけない>と言っているのでもありません。そういった、倫理もしくは仁義とでも言うべきレベルの話は、インターネットメディアの定着によって年々ズルズルになっている傾向があり、どこまでが、どの程度の文責を負うのか、誰にも曖昧な状況だと思っています。


  ただ、ワタシ個人が、自分が連載している雑誌で行われている他の方の連載に、よしんば吐き気を催したとしても、それをブログやツィッターに、自分の名前も相手の名前も出して明言する。という事はした事がありませんし、もししたとしたら、それは喧嘩上等である事を意味すると理解します(最近は、SNS退行といった症状もあり、ヒステリックに書きたいだけ書いて、抗議を受けると「自由に書いちゃいけないのか」とキレたり、要するに自分は好きなだけ書くけど、抗議は一切受けたくない。といった病的に退行した心性が散見されますが、大久保氏は、知己がないとはいえ、その文章から推察するに、そういった人物であるとはとても思えませんので)。


 個人的に大久保氏にはメールでワタシの考えを述べさせて頂き、事後のやりとりもワタシのサイトで公開にしようと思っております(ツィッターは基本的には公開のものであると解釈しますし、最初の一手を打ったのは大久保氏ですので)。それに際し編集部的に何らかの問題がありましたら実行はいたしませんので遠慮なく仰って下さい。また、問題が無い場合、実行に際して、氏の連絡先(メールアドレス、携帯番号等)を教えて頂けませんでしょうか?

 

  菊地成孔

 

 

 

 


 これに対して、編集部からは、ご本人から認可を受けた形で、アドレスが送られてきました。以下、ワタシと大久保清朗氏との往復メールです。公開に際しては大久保氏の許可を頂いております。ワタシも大久保氏も、文意が変わらぬ程度の、最低限の加筆修正を施しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大久保清朗様

 

 キネマ旬報の明智編集長からメールアドレスを聞いて送信させて頂いております。用件に関しては自ずとご理解頂けているかと思われます。あなたのツィッター上の書き込みを読ませて頂きました。


 ワタシはツィッターはやっておりませんし(昨年二ヶ月だけ、期間限定でやりましたが、今はアカウントもありません)、2ちゃんねるなども含めたSNS総体は、様々な意味で恐ろしいので全く読んでないのですが、ファンの方で、やれあなたが褒められていると言っては喜び、やれあなたが貶されていると言っては憤ってURLを貼付けてくる、ありがた迷惑気味な方が結構いまして、それで読んでしまった訳です。「吐き気もよされてますょw」というのがメールのタイトルでしたので、いささかのサディスティックな快楽も含まれているのかもしれませんが。


 いまどきつぶやきひとつに目くじらを立てる時代でもないでしょうし、ワタシなど、毎日どれだけ褒められたり貶されたりしているのか皆目見当もつかず、前述の様なタレコミとてつぶやきの総てでは無い訳で、くまなく目を通し、いちいち揉めていたら身が持ちませんので、よしんばひっでえなあコレと思う物に事故的に出くわしても、基本的にはスルーしています(時折、とんでもない悪質な、いわゆる風評被害のレベルに至っている物に関しては、抗議して訂正を要請したりしますが、それとて過去に一件のみです)。


  更に言えば、あなたのあのつぶやきが、ワタシに風評被害をもたらす、悪質で許しがたい物とも思いません。あなたのあのつぶやきは反射的なもので、ワタシの批評よりも、あらゆる意味で遥かに下品かつ幼稚だとは思いますが、確かにワタシのあの短文では、ポランスキーのあの傑作に関して、ポランスキーが永遠にぬぐい去れないのではないかと思われる「変態」という、非常に(悪い意味で)淫美かつ強烈なレッテルに関して、(正にご指摘の通り)ゴシップに類する事実を上げた上で、トラウマ反映の側面から(正にご指摘の通り)、フロイディズムの視点から書いているので、読み手の反応の中に嘔吐乃至、嘔吐感の喚起が含まれるのは充分あり得る事だと思っています。


 とはいえ今回はやはりちょっと事情が特殊で、スルーするわけに行きませんで、というのは、以後これは言うまでもない事ですが、第一にあなたは見知らぬハンドルネームだけのチンピラではなく、何冊も研究書を出版されている映画研究家であり、第二にはワタシと同じ雑誌の書き手であるからです。二重の意味で、プロフェッショナルから喧嘩を売られたのと等価(あなたの側に、喧嘩を売ったという意志はないでしょうから)だな。と判断せざるを得ません。喧嘩の大半は買わぬ方が得なのは承知しているのですが、やはり今回スルーは無いなと判断しました。


  しかし、実のところ、今回の様に、雑誌に連載を持っているプロの書き手が、ステージをブログ等に移して、その雑誌内の他者のテキストの批判を書いたり、或は批判ではなくとも、例えば、自分が誌面では書ききれなかった事等を補足する形でブログにサブテキストを書いたりする等々、あらゆる現代的な行為について、実のところ、ワタシは倫理とか仁義とか筋とかいった観点から的確に判断するすべを全く持っておらず、誰がどういう流れで、どのメディアで書いた事にどういう文責を追うのか、もうなんだか、最近はワケわからんよねグダグダで。といった把握に成っています。


  ですので、何はともあれ、今から、あなたのつぶやきを受け、書いておくべきであると思った事を書きますが、先手を打ったのがあなたであるのは間違いない事なので、最低でも一回はおつきあい頂けると有り難いです。

 

 


      *     *     *     *     *

 


 

 まず第一に、単純な事実誤認なのですが、ワタシは「最後に下品なフロイディズムなんかを持ち出し」たのではなく、(少なくとも、あの批評に関しては)最初からずっと持ち出しています。ペニスのメタファーだけがフロイディズムではありません。


 また、あのつぶやきでは文字数が少なく、あなたがフロイディズム自体を下品としているのか、フロイディズムに罪は無いが、それを映画批評に使っているワタシの手際を下品としているのか、いまいち判然とせず、もし後者であるならば、これは大いに自覚がありますので構わないのですが、前者だとした場合、あなたが映画批評を行うにあたり、精神分析学的な視点についてどう思われるのか是非伺ってみたいです。というのは、後述しますが、これはあなたの「嘔吐感」に関して、とても重要なファクターではないかと思うからです。


 そしてこれも、その事と密接な関係があるのですが、「ゴシップ的な事を並べて」という指摘があり、これはあなたが批評を行う上で、作家のゴシップは取り上げない。というある種の潔癖さを示しているのではないかと思われ、確かに所謂ゴシップというものは下品で強烈であり、嘔吐感を誘発する酷い物である可能性が高い訳ですが、ワタシの批評家としての立場は、作家の開示されている情報には質差は無く(憶測や噂は含みませんが)、批評の目的に応じて、刑事事件であれ、食べ物の好みであれ、恋愛遍歴であれ、どれを選択しても構わないというものです。

 

 松本人志が父親に成った事が「さや侍」のトーンに出ているとか、フェリー二が不安神経症の治療の中で「81/2」を作ったので、ユング的な図式が見て取れる。といった事と、ポランスキーの「晴れない幼女姦疑惑」は、ワタシに取ってはまったく同じステージの事です。文中にある、ポランスキーの「被害妄想マゾ」的な感受性の醸成には、シャロン・テート惨殺事件よりも以前に、ナチスの強制収容所を巡る記憶その他が加担していると思われますが、あの文章には必要ありませんでしたので取り上げませんでしたし、ポランスキーがエマニュエル・セリエと再婚し、ある種の穏やかさを獲得したと目されていることも、あの短文には必要なかったので選んでいません。


 しかし、いずれにせよ、ワタシは「作品に対して、作品世界の外の情報を、批評の素材にしてはならない」という潔癖さがなく、あなたが、こうした潔癖さをお持ちなのか、或は、単にワタシの、あの文章に於けるピックアップセンスが生理的にダメだったかを知りたいです。というのは、ワタシは前者をシンプルにちょっとバカだと思っており、場合に寄ってはバカが星をつけているという小さい惨事に繋がりかねず、大いに興味があるからです。これがワタシの無知による邪推で、あなたが後者だった場合は、さきほどの繰り返しに成りますが、大いに自覚がありますので、これは致し方ないなと思います。


 とさて、ダラダラと書き連ねてしまいましたが、ワタシが一番興味を持ったのは「吐き気を催した」という、一種の捨て台詞です。これは単に「余りに○○が○○過ぎて生きるのが辛いです」的な、単なるネット内でのクリシェなのかも知れませんが、だとしたら尚更興味があります。


 あなたのつぶやきは、嘔吐感を催させる様な対象(ここではワタシの文章)を、あたかも誰もが同じ様に嘔吐感を感じるに決まっている一面的な絶対悪であり、みなさんそうではありませんか?といった問いかけのニュアンスも含んでいると見受けられ、これがポエジーに対する不寛容。といったレベル以前に、単なる幼稚さであることはあなたにもご了解いただけると思います。何れにせよ、随分と無邪気で軽率な強烈な反応を引き出したな。と思っています。ツィッターを拝見する限り、あなたは嘔吐感とともに捨て台詞を残すといった行為が日常的である人ではないからです。

 

 これはそれこそ俗流のフロイディズムですが、そのレヴェルとて、嘔吐感を催した主体と、催させた対象には(多くは、抑圧による)関係が結ばれます。ワタシが道端で、口から咀嚼された昆虫を吐き出しているカラスを見て、嘔吐感を催したとします。しかし、ここでのカラスは絶対者ではありません。何故なら、このカラスを見ても何も感じない者や、ゲラゲラ笑う者、場合によっては大いに食欲を増進させる者もいるからです。ワタシは咀嚼され、圧縮された昆虫に嘔吐感を憶えた訳ですが、これは胎児のイメージと、生食のイメージが結びついており、しかもその二者に対して、ワタシが個人的な事情により抑圧を行っているからです。勿論理由はコレだけに留まりませんが、これが含まれる事は間違いありません。


 あなたのキャリアや文章から、「自分が気持ち悪いものは誰にだって気持ち悪いに決まっている」といった愚直さが平均的な構えに成っているとはとても思えません。ですので、一瞬、そうしたヒステリックなまでのシンプルさに追い込まれたのだと思いますが、その原因は、第一にはあなたが幼女姦願望と女性を惨殺する願望を抑圧して生きており、第二にはご自分の批評のスタイル(かなり自覚的かつ厳格であるとお見受けします)が、理想我に一直線に邁進する道具であり、堅牢に構築されたそれは、じゃによって、常に仮面が剥がされる不安があり、安全圏内(これは、扱われる問題がエグくないとかいった安全性ではなく、知的に制御出来るという安全性を指しますが)から一歩も出れずに生きているので、自己更新したいが出来ないという煩悶を根底に抱えているという諸処の抑圧を、ワタシの下品極まりない文章が、腫れ物に触る様に、ノドに指を突っ込む様にして嘔吐感を誘発させたのでは?と推察しております。


 これは、50年前の、カビの生えたフロイディズムですので、嘲笑に付すことは非常に容易いです。「美少女好きをキモロリヲタ扱いとは、50年代の人種差別にも似た陳腐」と。勿論そこまで極端ではありません、しかし私感では、フロイドはもう終わったという総ての人々は、フロイドが終わったかどうか何の確証も持っておらず、そこからは、分析されたくないという願望ばかりが感じられます。あなたの「最後にフロイトが出て来た」という、まるで軽率な愚者のごときフライング(というか所謂「噛んだ」のだと思いますけれども)は、あなたがフロイディズムに無知であるとか言った事ではなく、フロイディズムそれ自体が、童貞感覚とロリコン感覚の正統化には成功しつつ(これは現代の日本社会では比較的容易い事ですが)、その事への懐疑心とその合理化には大苦戦しながらにして、その事に向き合っておられないあなたの「臭いもの」なのではないかと思ったのですが、如何でしょうか。以上です。

 

 

 

 

 

 菊地成孔様

 

 初めまして。メール拝受致しました。まず私のツイッター上での批判(というより嫌悪感の表明)に対して真摯な返信を頂けましたこと、しかもきわめて意を尽くした長文のお返事をお書き頂けましたこと、深く感謝し、かつまた恐縮しております。

 

拝読し、頂いた質問については、大きく分けて3つの点に絞られるのではないかと思いました。フロイディズム(フロイト的解釈・学説)の問題、ゴシップの問題、嫌悪感(「吐き気」)の問題です。

 

まずフロイディズムについて。フロイトの学説自体が下品なのか、それとも菊地さんのフロイト学説の援用が下品なのか、そのどちらなのかという曖昧さについてです。ここで私が謂わんとしていたのは後者になります。私もまた研究者としてフロイトを読み、刺激を受けております。そしてフロイトの業績に対しては敬意こそ懐くことはあれ、侮蔑や嫌悪を感じているわけではありません。

 

もう一つ事実誤認について、すなわち菊地さんが「最後に」なってフロイトを持ち出した云々については、こちらの誤りであったと認めます。すでにタイトルに「リビドー」という語を冠せられ、「変態」、「マゾヒズム」という語を用いられています。

 

とはいえ、いささか些末な指摘に思われるかも知れませんが、フロイト学説に厳密を期すなら「変態」より「性倒錯」という語を用いるべきではないでしょうか(文脈からして「性倒錯」の謂と推察しましたが、これもまた私個人の誤認であり「性倒錯」以外の語彙が該当するのであるのであれば、お手数ですがご教示下さい)。いずれにせよ、私は菊地さんがここで厳密さよりも平俗さを優先しているとように思いました。こうした点に、私はくだんの「下品さ」を感じたのです。

 

次にゴシップについて。よりニュートラルにいえば映画をとりまく様々なコンテクストについてです。私も菊地さんと同じく、映画をとりまくあらゆるコンテクストを捨象し作品内の映像と音響だけを論じるべきだとは思いません。そうした「潔癖さ」は端的にいって映画批評の貧困を招くものだとさえ思います。にもかかわらず、菊地さんが「潔癖さ」を感じ取ったとしたら、こちらの書き方の至らなさを謝罪するとともに、誤解を解いて頂くようお願い申し上げます。

 

蛇足になりますが、『ゴーストライター』という作品は、ポランスキーという映画作家のバックグラウンドを知れば知るほど、映画の世界の重層性が浮き上がる作品であり、アメリカに軟禁幽閉されるイギリス元首相の境遇は、ポランスキーのそれを思わせ、そこに自虐的(まさしくマゾヒズム!)でアイロニカルな自己認識を見て取ることは可能です。いや、可能であるばかりか、そうすることでこの作品に対する興趣がいっそう増すでしょう。ただ人道に対する罪(しかもそれが大国の陰謀によるもの)で起訴されるアダム・ラングと、幼女淫行容疑(しかもそれが法廷強姦という法制度の不条理)によって亡命生活を余儀なくされるポランスキーのそれとではまた大きく相違しますが。

 

いずれにせよ、ここで私が問題にしたかったのは、菊地さんがお書きになっておられる「ピックアップセンス」、すなわち取捨選択の感覚でした。ご存じのようにポランスキーの人生には、信じられぬほど多くの逸話が溢れかえっております。ことにシャロン・テート事件と幼女淫行容疑については必ずといっていいほど言及されます。そして菊地さんは、ポランスキーの長い人生に広がるコンテクスト群において、まさにこの最も「ゴシップ」的なもの、これまで何遍となく流布してきた二つを選択されました。さらに、厳密さよりも平俗さを優先するという先ほどのフロイディズムの問題とも通底する価値判断があるように見受けられるのです。

 

最後に「嫌悪感」について。私なりに菊地さんの文章をまとめさせて頂くと、私があの『ゴーストライター』評を読んで「吐き気」を催したのは、そこに私自身の抑圧の体制が作動していたのではないかというものでした。なるほど、私はいろいろなところでアニメ好きを公言しておりますし、そうした作品の多くは幼女・少女を主人公としたもので、そうしたゴシップ的なコンテクスト(!)に照らし合わせた場合、そうした推察も何となく正当化されるなと、率直に申し上げて「なるほど」と思いました。

 

しかしあそこで書いたことはそこまで深読みする態のものではなく、これまでも再三述べてきましたように、厳密さよりも平俗さを優先する価値判断にありました。ユアン・マクレガー演じる名前のないゴーストを轢き殺す自動車の疾走に、菊地さんは、幼児淫行の疑惑のあるポランスキーの「変態」を見たわけですが、これはやはりあまりにもアクロバティックかつ短絡的だと感じました。自動車の疾走がどうして自慰と射精の隠喩なのか。もしそうだとしても、私としてはこの作品世界の豊かな広がりに貢献しないと思いました。

 

これも蛇足なりますが、フロイト解釈ではペニス=男性象徴を探し当てますが、たとえばピアース・ブロスナンの役名が「アダム」(神が生み出した最初の男性)であり、しかもファミリー・ネームが「ラング(=言語)」であるのはいかにも象徴的です。しかも自叙伝の冒頭で、Langlong(長い)から派生していると語られているのですから、これはもうそのものズバリ、男根を暗示するネーミングであり、その意味で、この作品はじつに巧みにこちらの象徴読解を誘っています。この過剰な男性性が、最後のどんでんがえしの伏線になっていることは、菊地さんならたちどころに察知されたと思います。だからこそ、自動車の、しかも疾走という運動性に着目したのだと推察しますが、そうであったとしても、もう少し作品自体の仕掛けに目配せを送りつつ、自説を述べられるべきではなかったでしょうか。

 

むしろ自動車という道具立てに着目するなら、劈頭のフェリーのシーンにおける不動性、中盤におけるカーナビにおける寄る辺なさ、そして最後の疾走における姿の見えない運転手と、緩急自在な運動性・運転手の不在・幽霊・死のモチーフが不気味な通奏低音のように響いていました。こうした豊かなテクストに寄り添うことなく、ポランスキーの「変態」に還元しようとするのは私個人としては納得ができなかったのです。もちろんツイッター上の呟きによって、読者(フォロワー)に同調を求めようとは毫も考えておりません。

 

今まで述べてきたことのくり返しになりますが、フロイディズム、ゴシップそのものに対してよりも、私が気になったのは、それをかなり強引に援用する乱暴さにありました。すべたがそうであるは断言しませんが、ブログやツイッターを含め、ネットに溢れかえる映画レビューには、こうした乱暴さが蔓延しております。私たちはプロとして、そうした乱暴さとは別のアプローチによって拮抗するべきなのではないでしょうか。とはいえ、問題の発端となった私のツイッター発言自体がきわめて乱暴なものであったことは率直に認めております。この種の乱暴さ対して、菊地さんが批評家として怒りを感じられたこと、しかも私をプロの書き手と認めて下さった上で、その主の乱暴さとは無縁の言葉づかいで反省を促して下さったことに感謝しております。

 

私の発言が敵意や悪意によるものでなく、あくまで映画批評の倫理から発せられたものであることを斟酌していただければ幸いです。この拙いメールのやりとりによって、お互いの誤解が解かれ、より生産的な議論へと開かれていくことを願いつつお返事とさせて頂きます。

 

 

 

 

大久保清朗様

 

 菊地です。メール落掌いたしました。この種の議論は(もう、充分に「議論」と呼べる物であると判断しますが)、厄介な事には、とても面白く、互いに言いたい事がどんどん見つかり、果てしなく成る可能性があるので、頂戴した返信に対してのワタシの考えを、なるべく短く、重要であると思われる部分のみ述べさせて頂きます。ワタシがメール差し上げた目的は、最初の送信で果たされておりますので、後は大久保さんのご判断にお任せします。

 

 

拝読し、頂いた質問については、大きく分けて3つの点に絞られるのではないかと思いました。フロイディズム(フロイト的解釈・学説)の問題、ゴシップの問題、嫌悪感(「吐き気」)の問題です。

 

まずフロイディズムについて。フロイトの学説自体が下品なのか、それとも菊地さんのフロイト学説の援用が下品なのか、そのどちらなのかという曖昧さについてです。ここで私が謂わんとしていたのは後者になります。私もまた研究者としてフロイトを読み、刺激を受けております。そしてフロイトの業績に対しては敬意こそ懐くことはあれ、侮蔑や嫌悪を感じているわけではありません。

 

 

 了解しました。

 

もう一つ事実誤認について、すなわち菊地さんが「最後に」なってフロイトを持ち出した云々については、こちらの誤りであったと認めます。すでにタイトルに「リビドー」という語を冠せられ、「変態」、「マゾヒズム」という語を用いられています。

 

とはいえ、いささか些末な指摘に思われるかも知れませんが、フロイト学説に厳密を期すなら「変態」より「性倒錯」という語を用いるべきではないでしょうか(文脈からして「性倒錯」の謂と推察しましたが、これもまた私個人の誤認であり「性倒錯」以外の語彙が該当するのであるのであれば、お手数ですがご教示下さい)。いずれにせよ、私は菊地さんがここで厳密さよりも平俗さを優先しているとように思いました。こうした点に、私はくだんの「下品さ」を感じたのです。

 

 

 ワタシが「変態」という俗語を使ったのは、ワタシの選択というより、一般的に「変態ポランスキー」という言い方がなされる、その事実に対応しています。これは些事ですが、キネマ旬報編集長(ワタシと同世代です)がワタシに宛てた手紙(DVDに添えられているもの)にも(特に意味もなく、恐らく反射的に)「変態ポランスキーの新作です」と書かれており、俗悪性と魅惑の力の認識としての俗語、しかもクリシェとして定着した物という安定感が感じられます。

 

 仰る通り、フロイトの学説に厳密を期すならば、他に様々な、妥当な語があると思いますが、御存知の通り、フロイト学説上の語群は、かなり多くが俗語として、歪曲、希釈などの加工を経て一般語になっています。ですので、短文とはいえ、そこに忠実にやると(語の選択だけでなく、分析行為の厳正さまで期すると)、散文としてキネマ旬報の連載批評の粋を越えてしまう、と、これは映画批評に精神分析学を援用すること全体の問題になり、難問化するので、ワタシは常に、ああした、ある意味「下品」な使い方で、映画自体も、精神分析学の扱われ方も、同時に批評しようとしているつもりです。

 

 ですので、ワタシのあの批評は「巷間、変態という<下品な>クリシェで処理されてしまう(つまり、俗悪であり、魅力的である)ポランスキーが、洗練と醸成を獲得している(が、まだ「変態」の残滓が感じられる)」というアンビバレンツに関して、性急に書いた。というのが正直な所です。

 

 

次にゴシップについて。よりニュートラルにいえば映画をとりまく様々なコンテクストについてです。私も菊地さんと同じく、映画をとりまくあらゆるコンテクストを捨象し作品内の映像と音響だけを論じるべきだとは思いません。そうした「潔癖さ」は端的にいって映画批評の貧困を招くものだとさえ思います。にもかかわらず、菊地さんが「潔癖さ」を感じ取ったとしたら、こちらの書き方の至らなさを謝罪するとともに、誤解を解いて頂くようお願い申し上げます。

 

 

 了解です。ワタシが感じ取った「潔癖さ」は、そのそも素材が非常に少なく(不勉強&不躾ながら、あなたの著書を読んでおりませんので)、うっすらと感じられるものの、確信にはいたらなかったので、質問してみたのです。

 

 

蛇足になりますが、『ゴーストライター』という作品は、ポランスキーという映画作家のバックグラウンドを知れば知るほど、映画の世界の重層性が浮き上がる作品であり、アメリカに軟禁幽閉されるイギリス元首相の境遇は、ポランスキーのそれを思わせ、そこに自虐的(まさしくマゾヒズム!)でアイロニカルな自己認識を見て取ることは可能です。いや、可能であるばかりか、そうすることでこの作品に対する興趣がいっそう増すでしょう。ただ人道に対する罪(しかもそれが大国の陰謀によるもの)で起訴されるアダム・ラングと、幼女淫行容疑(しかもそれが法廷強姦という法制度の不条理)によって亡命生活を余儀なくされるポランスキーのそれとではまた大きく相違しますが。

 

 全く同意見ですし、実際そうした評は、本作に対するスタンダードを形成しつつあるとすら思います。

 

いずれにせよ、ここで私が問題にしたかったのは、菊地さんがお書きになっておられる「ピックアップセンス」、すなわち取捨選択の感覚でした。ご存じのようにポランスキーの人生には、信じられぬほど多くの逸話が溢れかえっております。ことにシャロン・テート事件と幼女淫行容疑については必ずといっていいほど言及されます。そして菊地さんは、ポランスキーの長い人生に広がるコンテクスト群において、まさにこの最も「ゴシップ」的なもの、これまで何遍となく流布してきた二つを選択されました。さらに、厳密さよりも平俗さを優先するという先ほどのフロイディズムの問題とも通底する価値判断があるように見受けられるのです。

 

 

 これは前述の通りです。個人的な話に成りますが、ワタシは神経症の治療として、10年ほど前に精神分析治療を2年間受けた事があり、その経験から、所謂「俗流フロイディズム」と、「アカデミシャンによる、精神分析学援用スタイルの映画批評(特にドゥルーズ/ガタリ)」、と実際の臨床の治療過程の三者に、とてつもない隔たりと、密接な関係性を感じており、そのバランスを批評に持ち込もうとしています。

 

 ポランスキーを、例えばドゥルーズ/ガタリ的な、安定した「高級な」フロイティズムの技巧で扱えば、前述のスタンダードに行き着く事は目に見えています(他にもいくつかの象徴関係を見つける事も出来るでしょうし、ドゥルーズ/ガタリがそうしているように、それは、精神分析学への批判という側面も立ち上がってくるでしょうが、それでも)。ですので、偽悪的とまでは言いませんが、ワタシは、俗流に乗る事でしか到達出来ないアクロバットを演じようと腐心し、いくつかは成功し、いくつかは失敗していると自覚しています。

 

 

 しかしあそこで書いたことはそこまで深読みする態のものではなく、これまでも再三述べてきましたように、厳密さよりも平俗さを優先する価値判断にありました。ユアン・マクレガー演じる名前のないゴーストを轢き殺す自動車の疾走に、菊地さんは、幼児淫行の疑惑のあるポランスキーの「変態」を見たわけですが、これはやはりあまりにもアクロバティックかつ短絡的だと感じました。自動車の疾走がどうして自慰と射精の隠喩なのか。もしそうだとしても、私としてはこの作品世界の豊かな広がりに貢献しないと思いました。

 

これも蛇足なりますが、フロイト解釈ではペニス=男性象徴を探し当てますが、たとえばピアース・ブロスナンの役名が「アダム」(神が生み出した最初の男性)であり、しかもファミリー・ネームが「ラング(=言語)」であるのはいかにも象徴的です。しかも自叙伝の冒頭で、Langlong(長い)から派生していると語られているのですから、これはもうそのものズバリ、男根を暗示するネーミングであり、その意味で、この作品はじつに巧みにこちらの象徴読解を誘っています。この過剰な男性性が、最後のどんでんがえしの伏線になっていることは、菊地さんならたちどころに察知されたと思います。だからこそ、自動車の、しかも疾走という運動性に着目したのだと推察しますが、そうであったとしても、もう少し作品自体の仕掛けに目配せを送りつつ、自説を述べられるべきではなかったでしょうか。

 

 この点はワタシの論旨と真っ向から対立する部分です。ワタシは、ご指摘の通り、本作には、かなり豊かな広がりを感じており、これを「変態」のクリシェで切って取ってしまう事は非常に冒涜的であると思っていますし、文中にある通り、所謂「変態性」はラストまでは全くなかったと思います。

 

 しかしワタシは、ラストの、原作には無い(つまり、ポランスキーの欲望によって加えられた)、「主人公が轢き殺されてしまう」という余剰に、ある意味で総てをブチ壊してしまう様な(一種の「夢オチ」にも似た)、屋台崩しのカタルシスを感じました。多くの評者や出演者までが、あのオチの「素晴らしい」と評価している事をして、その感動の質が、カタルシスである事を意味している様に思います。

 

 

むしろ自動車という道具立てに着目するなら、劈頭のフェリーのシーンにおける不動性、中盤におけるカーナビにおける寄る辺なさ、そして最後の疾走における姿の見えない運転手と、緩急自在な運動性・運転手の不在・幽霊・死のモチーフが不気味な通奏低音のように響いていました。こうした豊かなテクストに寄り添うことなく、ポランスキーの「変態」に還元しようとするのは私個人としては納得ができなかったのです。もちろんツイッター上の呟きによって、読者(フォロワー)に同調を求めようとは毫も考えておりません。

 

 これも同じ主張の反復に成りますが、ラストまでの車の扱いは、ご指摘の通しり、象徴読みへの誘導から何から非常に豊かで、ワタシもシンプルに感動していました。ところがラストの「え?最後に轢き殺すの?」という瞬間の驚きはカタルシスであり、そこから生じる性倒錯的な高揚は、バランスがブチ壊されながら興奮してしまう。といった態のもので、「これじゃあ変態扱いが止まらないよ」というのが、ワタシの結論でした。ラストは異物感であり、リアルからアンリアルへ制御から衝動へといった対比を感じました。多くの批評がそうは読解しておらず、一貫性の中に、画竜点睛な、見事なラスト。としていることに、ワタシは違和感を感じていました。ワタシのあの文章の構造の決定はその違和感に起因しています。

 

 

今まで述べてきたことのくり返しになりますが、フロイディズム、ゴシップそのものに対してよりも、私が気になったのは、それをかなり強引に援用する乱暴さにありました。すべたがそうであるは断言しませんが、ブログやツイッターを含め、ネットに溢れかえる映画レビューには、こうした乱暴さが蔓延しております。私たちはプロとして、そうした乱暴さとは別のアプローチによって拮抗するべきなのではないでしょうか。とはいえ、問題の発端となった私のツイッター発言自体がきわめて乱暴なものであったことは率直に認めております。

 

 前メールにて申し上げた通り、ワタシはSNSとそれ以外の媒体との諸関係、そこから生じる倫理や義務といった諸問題に対する、所謂メディア論的な複雑さにお手上げに成ってしまっており、それこぞフロイト的に言えば、現状というのは解離性人格障害(所謂人格分裂)の温床である様にしか見えない。といったシンプルさの前で立ち尽くしているだけなのですが、例えばこの議論も既にその複雑さに飲み込まれてしまっていると思います。ワタシが大久保さんに、フロイティズムに対する評価について再三質問したのは、「吐き気がした」という捨て台詞的な言い切りが、フロイティズムに敏感であるならば、とする限りにおいて、ですが、到底出来ない事ではないかと思った訳ですが、と同時に、「まあ、ツィッターならやっちゃうよな」という説得力も感じざるを得ない訳です。

 

 ここでは、「ネットに溢れかえる乱暴さと、援用の強引さという乱暴さを同一視している誠実な大久保さん」と「ツィッターで乱暴になる大久保さん」が、無理無く同居しているわけで(ツィッターでの乱暴さは、まったく別件によって生じているのではなく、他者のテキストの乱暴さに対する批判という形を採っているので)、年寄り臭い言い草に成りますが、非常に現代的だなあと思ったのです。ツィッターが公開性さえ持たず、大久保さんのつぶやきが飲み屋という空間の中で放たれていたのであらば、それは昭和のスタンダードだとも言えます。

 

 そしてこれは、「俗流フロイト/高級アカデミズムフロイト/臨床現場のフロイト」というトライアングルの複雑さを、厄介だなあと思い、それを超克しようと願っているワタシのテキストが、俗悪なフロイト援用に読めてしまった(少なくとも、大久保さんには)という事と対応しているとも言えると思います。

 

この種の乱暴さ対して、菊地さんが批評家として怒りを感じられたこと、しかも私をプロの書き手と認めて下さった上で、その主の乱暴さとは無縁の言葉づかいで反省を促して下さったことに感謝しております。

 

私の発言が敵意や悪意によるものでなく、あくまで映画批評の倫理から発せられたものであることを斟酌していただければ幸いです。この拙いメールのやりとりによって、お互いの誤解が解かれ、より生産的な議論へと開かれていくことを願いつつお返事とさせて頂きます。

 

ですので、ワタシはあなたに反省を即すなどといった気持ちは全くありません。ワタシは、これはl興味深く、共有性のある現代的な問題であると思ってメールさしあげたのですし、また、あなたの主張に背き「敵意や悪意ではない」のではなく、一瞬の敵意や悪意(と、嘔吐感)だったのではないか。と思っています。ワタシは音楽家ですので、瞬間の純粋な悪意と、それが霧散、変質してしまう過程を日常的に知っておりますので、大久保さんが継続性の悪意や敵意をワタシに持っているとは思っていません(それには、根拠や素材が無さ過ぎると思いますし)。それよりも問題は、倫理という半永続が、一瞬の悪意や敵意や嘔吐感を生じさせる事で、そこにインターネットというメディアが挟み込まれているという事です。ご丁寧な返信を有り難うございました。

 

 

 

 

 

菊地成孔様

 

返信拝受しました。すでに先のメールによって、私と菊地さんのあいだに横たわる誤解は解消されたと思います。また菊地さんの第二信によって、菊地さんが『キネマ旬報』の『ゴーストライター』評において何を言おうとしていたのかが、わたしはより鮮明に理解することができました。それにより、私のくだんの「不快感」はすでに解消しており、これ以上、こちらから見解を述べ、菊地さんの評にさらなる疑義を呈しても、ただ不毛な平行線を辿るだけのようにも思いました。それゆえ、メールを差し上げるか躊躇しました。

 

ただ今回新たに了解したこともあり、補足として少しだけ述べさせて下さい。

 

まずポランスキーの「変態」について。先のメールで私は2つのことを初めて知りました。第一に、「変態」とは、フロイトからの援用いうよりポランスキーをめぐる「クリシェ」であるという点です。これについては付随的に、『キネマ旬報』編集長の○×さんが「変態ポランスキー」という言葉を使われていたことをご教示頂きました。第二に、菊地さんのレビューに戻るのですが、菊地さんがあのラストに、異常なほどのカタルシス――前回のメールの菊地さんの言葉を用いれば「余剰」――を認められていたということです。私は『キネマ旬報』の評を拝読して、自動車の走行=射精というイメージの連合ぶりにかなり拒否感に近い違和感を感じたわけです。ですが、返信を読みまして分かりましたのは、菊地さんとしてはそのような論理の飛躍をせずにはいられないほどの、なみなみならぬ衝撃、異様な興奮――敢えていえば感動――を、『ゴーストライター』の最後のショットに覚えておられていたのだな、ということです。そしてあの、あまりに見事なラスト、今まさに死者=ゴーストとなってしまった主人公の手から解き放たれたマニュスクリプトが画面を覆うラストに、私もまた思わず息を呑みました。

 

それを認めた上で、二つの点で反論をさせて下さい(もちろんこれは論破するというより、お互いに見解の相違を明らかにするためにです)。

 

まず第一に、私はあのラストに菊地さんのおっしゃるような「余剰」はないのではないかと思うのです。私がそこに作品の均衡を揺るがせるような暴力性を感じないのは、ごく単純な理由です。それはあの自動車が、主人公に突進するかなり前から画面の中に映り込んでいるからです。このあたり、たとえば『絞殺魔』のフライシャー(そしてそれに影響を受けた『叫』の黒沢清)がやるように、フレームの外からいきなり自動車が現れて主人公をはねとばすというような不条理さはないと思います。むしろタクシーをつかまえそこなったマクレガーが悄然とフレームアウトしたのを見計らって、画面奥に控えていた自動車のヘッドライトを絶妙なタイミングでつくあたりに私は優雅さを感じました。

 

第二に、いわばポランスキー論ともよべる菊地さんのレビューの結論の在り方です。あのレビュー内容を私なりに(それこそ「乱暴」に)要約するなら、「変態ポランスキーは、映画の最後に変態ぶりを見せてくれた」というものです。いやむしろ、ポランスキー自身が変更したカタルシスあふれるラストにこそ、フロイト的にいえばまさしく「抑圧されたものの回帰」があったことになります。つまり、映画の最後で、映画はポランスキーの夢の世界突き抜けているのではないか。こういうことなのではないでしょうか。そう考えると、あのラスト、まさに「夢オチ」的ですね。ただそうなると結果として、菊地さんは「変態監督はやっぱり変態だった」という結論にたどり着いてしまわれた、ということになるのでしょうか。そのようなクリシェとして斬って捨ててはいけない、とお書きになられているにもかかわらず、です。そのあたりクリシェの追認になってはいなかったかと思うのです。

 

蛇足になりますが、「変態」という語の用法、日本の映画批評で近年特に便利に使われているように思われます。もともと、非常に否定的な意味である「変態」を一種の褒め言葉として使ったのは、おそらく蓮實重彦ではないかと思います。私の覚えている限り、『ブラッド・ワーク』評で、イーストウッドのいわば特異なマゾヒズム(傷つく、手術を受ける、裸になる……)を「言葉の真の意味における変態」と評していたと思います。そのせいか、老境にあっても創作の衰えない映画作家たち、ことに一種、好色な風聞のささやかれる作家たちに対して、しばしばこの語が用いられています。オリヴェイラは変態、シャブロルは変態、などのように。何が言いたかったかというと、あの評で菊地さんが「変態」という言葉を持ち出したとき、わたしはフロイトのことよりも、こうした、いろいろな意味で精力旺盛な老人監督たちの狂い咲きを称えるクリシェとして読んでしまった、ということです。弁解がましいですが、最後にフロイトを持ち出した、と私が誤解したのもその辺の批評状況が絡んでいたということなのです。

 

 

さて、第二信目を読ませて頂き、私が思ったのは、菊地さんが私が「吐き気」を覚えたことの理由、及び、私がそれをネット上で直截に表明してしまうことについて、まだ十分に納得されていないのではないかということです。映画におけるフロイディズム援用にするといっても、この反応はいささか過剰ではないか、とおっしゃりたかったのではないでしょうか。すでに最初のメールで、菊地さんはご自分の嘔吐の記憶についてご説明してくださっておりました。私もそうした個人的な何かがあるのではないか、と菊地さんも推察されたのではないでしょうか。

 

そう、まさしくそうなのです。私はフロイディズムの映画論に対する嫌悪感があるのです。全部を語ると長くなるのでごくかいつまんでご説明します。名前は伏せますが、ある映画学者の書いた木下恵介論を読んだときです。その論文は、『二十四の瞳』『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾年月』について、この「涙の三部作」がその当時の日本人観客をとらえたのはどうしてかを究明するものでした。主人公の夫婦がなぜかくも懸命に灯台という石の塔を守るのか、と問いかける論文を読みながら、私は内心、かなりイヤな予感がしたのです。「失われたファルス(男根)を求めて」という、とてもまともな神経とは思えないような論文題目から「これはもしかして」という漠然とした疑念を喚起させるものであり、それが次第に確実なものとなっていったからです。はたして結論部において、『喜びも~』の灯台守夫婦が守っているのは、日本の象徴的男根であり、それはすなわち天皇のペニスであったという結論が下されました。その瞬間、私は嫌悪感とともに、正直もうフロイディズムはこりごりだと思ったのです。私は、木下作品をそれほど高く評価する者ではありませんが(それでも『女の園』は大好きなのですが)、それでもこの長く親しまれた名画に、こんな卑猥な読解しか下せないこの論文の執筆者の発想の下品さのみならず、すべての棒状のオブジェを男根と見なさずにはおかないフロイディズムそのものを呪いました。

 

このあたり、問題は単なる書き手個人の問題ではなく、日本における映画研究の歴史の浅さによるものかも知れません。すでに最初のメールでもお答えしましたように、私はフロイトの研究に対して最大限の敬意を懐いております。それだからこそ、フロイトをもっと真剣に読み、かつそこから何かをくみ取らなければならないと考えています。「人間の胸の内には凶悪きわまりないデーモンが完全には飼い慣らされないまま住みついている。私のようにこのデーモンを呼び覚まし、それと戦おうとする者は、この戦いにおいて自分も無傷ではいられないことを肝に銘じておかねばならない」。ドラ症例を書いたフロイトの名高き一節です。冗談として受け流してくださればと思うのですが、菊地さんは、私のなかのこのやっかいな「デーモン」をちょっとだけ呼び覚ましてしまったのかも知れません。どうも私のなかにはそうした「デーモン」が潜んでおり、ツイッターやインターネット空間でときおり目を覚ますようなのです。何だか非常に無責任な居座りに思えるかも知れませんが、人の心と暗闘し、傷だらけになったウィーンの碩学に敬意を表し、お答えとさせて頂きます。

 

 

 

 

 

 大久保清朗様

 

 

 唯二(という語はありませんが)の参加者の内の一人、即ち当事者と呼ぶに吝かでない者が申し上げるのも僭越至極ですが、有意義な議論に至り、嬉しく思います。とはいえワタシの理解では、議論というものはセッション(正に分析の、そして音楽のそれに似た)であって、線的に現れるピークを掴んでは、取りあえずの解除を行うのが公にする際の重要事項だと思いますので、大久保さんからの先の第二信を受けた、ワタシからの最小限の返信をもって一度ピークを取ったとし、ここまでを公開したいと思います。

 

 ワタシ達の、少なくとも現状での「ゴーストライター」に対する重要な相違は、エンディングの解釈一点のみであり、敷衍的に、映画批評とフロイディズムとの関係への立場に関しては、実のところ大きな相違は感じなかった(X氏による木下恵介論に端的な、フロイド援用への生理的なまでの不快感。という、最早一般論とも言える強い主張は勿論ワタシも共有しています。追記になりますが、それはドゥルーズ・ガタリのみではなく、スラヴォイ・ジジェクに明確で、嫌悪感が魅力である事を示すものですが。何れにせよワタシは、一般的なフロイト援用に於いて、<俗流/高尚/拒否>といった段階を設定しています)と思います。そして、この両者は、映画批評という行為の根幹に関わるアポリオの一つであり、我々の、僅か数往復の議論によって、最小限の解決にすら及ぶ性質のものではないのではないか(これは決して、ネガティヴなものではありません)。というのが私感です。

 

 前者に関する大久保さんの解釈(ラストは余剰ではない)は、テキストとして実に説得力があり、テキスト領域である限りにおいて、ややもすれば完全に納得してしまいそうになる程ですが、これはワタシという主体における他者の言葉、という強度の働きも加担されていると推察され、ワタシの解釈(ラストは余剰である)にも同等の説得力が宿り、つまりディベートに於けるドローや、将棋に於ける詰めの状態になったというのが妥当ではないかと思いました(臨床のセッションに於いては、この状態はトラウマ言語化という収穫となり得りますが)。

 

 勿論これは、第三者の審判を仰いでいない密室性の中での、当事者によるジャッジですので、余りにも傲慢かつ蒙昧である可能性は承知の上での仮説ですが、そのまま更に言えば、余剰の有無についてのワタシ達の言い分は、質差ではなく量差であるというものです(正にこれは、フロイディズムそしてマルキシズムですが)。大久保さんのテキストにより、ここではそれが「フレームに既に入っていたものの、急激な加速」と「フレームの外にいたものの、突如としての登場」の、どちらが余剰か?というクエスチョンに鮮やかに落とし込まれていると思います。そして、それに対するワタシの解答は「余剰の算出においては、後者の方が値が高い。が、前者でも既に余剰と感じられる」といった、身もふたもないものです。「1000円で何が買えるか?」という奴ですね。このことに関しては、音楽ソフトの市場価格が極限まで切り崩されているという現状を踏まえる限りにおいて、音楽家と映画研究家の違い。という視点も提出可能ではないかと思います。

 

 これは、ある種の敏感さを巡る値だとも言えますが、巷間「過敏」という言葉はあっても「鈍敏」といった言葉がないように、敏感さにはベクトルがあり、麻痺と余剰が、クラインの壷ではなく、単線的なレースのコース上にあるのか否か。というのは、またしてもアポリオです。しかし少なくとも今回明確に成った事は、ワタシの方がある種の刺激に過敏である。という事です。ワタシは、批評の対象である遥か以前に、所謂Jホラーを観る事が出来ません。余りにも恐ろしいからです。刺激に過敏である者のエクリチュールの方が、あるステージでは俗悪で乱暴に成り(前のメールにある通り、これは一種のアクロバットとして、自覚的なものですが)、それよりもいくばくか刺激に慣れている者のエクリチュールが、ステージによっては慎重になり、別のステージ(ツィッター)によっては乱暴になる。という、予め現前していた事実は、非常に興味深いところである(フロイトの、攻撃性を巡る研究と照合しても)。と、些か短絡的にまとめれば、こういう事に成りそうです。

 

 最後に、議論の中で後景に押しやられてしまった感のあるポイントを書いてセッションを解除しようと思います。ワタシの短文のテーマは「ポランスキーはやはり<変態>である。それは、善し悪しではなく、ある結果を生んでいる」ですが、そこに付帯した視点として「創作者は、トラウマを<汚名>だとした場合、それを後年に濯ぐ事が可能か?」というポイントです。ワタシの短文の中では、「自己更新」としていますが、主人公を演じる俳優3人が、マスイメージ(ジェームス・ボンド/SATCのサマンサ/若き日のオビワンケノビ+α))を見事に払拭するトライアングルを見せる「ゴーストライター」が、ポランスキーの自己更新に支えられているのか、自己更新の不全に支えられているのか。ワタシが読み取った構造は「ポランスキーまでまとめて見事にみんな自己更新」というものではなく、ポランスキーの自己更新の(ギリギリの)不全が犠牲となって、メインキャスト3人の自己更新を推進した。というものです。

 

 マガジンからSNSにパスされた攻撃性。という流れが、所謂「炎上」と呼ばれるフレーミングに向かわず、非常に示唆的な議論になった事を嬉しく思い、感謝しています。仰る通り、我々の議論が「ゴーストライター」という素晴らしい作品への、何らかの寄与がある事を願いつつ、取りあえずここまでを公開(さきほど頂いた修正を生かした上で)とさせて頂きます。

 

 

 

 

 

 

 とまあ、仕事の合間に、こういった事もしていたりなんかして。という感じです。明日は近所とはいえ、ほとんど寝ないで行くので(笑)、途中で寝たら起こして下さい。それでは。