月
08
8月
2011
うー、ご贔屓筋にはおなじみ、周期性(たってまあ、年に3回ぐらいですが)でやってくる過労で久しぶりに倒れまして、北海道から戻り、新宿でインストアイベントやって即で倒れたので週末医者に行けず、売約のみで対応(まあ、風邪ですね)していたら気管支炎みたいに成って来たので(苦笑)、本日はファンの方との往復書簡を(重い病気とかではありません。むしろワタシ、周期的に過労で倒れたほうがバランス良いので、御心配なく。明日大久保病院にいってきます)。
菊地さん
先週の放送、とても楽しく聴けました。
菊地さんの番組が、私にとっての「日曜のサザエさん」になりそうです。
特集、特に少女時代"Genie"のアナリーゼが面白かったです。
「調性を規定する"パワースポット(F♯m、あるいは新宿)"になかなか還らず、でも偶に(サビ4小節ループの3小節目)ふらっと還る」ことのクールさ、
単に調性がないのでなく(山手線上にはいる)、パワースポット(もしくは実家)のありかをちらっとは見せつつそこから距離をとることのカッコよさについて、つまりK-Popにおける「クールの誕生」について言われていたのにはなるほどと思いました。
さて、どのようにしてこのクールネスが誕生したのかについて、菊地さんは明確に言及されておりませんでしたが、渋谷系的音楽ボキャブラリーのかの地での胚胎による「日-韓の共通言語」の獲得・醸成が少女時代(の日本での受容)の前にあるという点をポイントとして押さえておくのはどうか?と私なら思いますがいかがでしょうか。
90年代後半~00年代前半にかけて、渋谷系、ならびにポスト渋谷系と呼ばれるアーティスト含め、韓国でこれらの音楽がかなり好意的に迎え入れられていたと報じられておりました。
(個人的にも、この時期初めて韓国を初めて旅行し、Tei Towaさんの韓国版ベストとFPMのリミックスアルバムを購入したことが記憶に残っています)
また、Spank happyの楽曲における韓国語ナレーションの当時の受容のされ方について番組内で言われておりましたが、
・m-floさんの2001年作品"expo expo"の中盤でTei Towaさんの(正確には音声合成システムによる)韓国語ラップがカットインし、
http://www.youtube.com/watch?v=oBtpQjy7iPo
・須永辰緒さんの多くのリミックス(リプロダクト)では韓国語のナレーションがブランドロゴのように刻印され、
・pizzicato fiveの1997年作品"happy end of the world"のジャケットには韓国語のタイポグラフィがデカデカと入っていたことこともあり、かの地の音楽との実質的な交流はまだにせよ、「韓国的なるもの」との交流はすでに活発化しつつあったように私は思います。
と、ここまでは商業音楽文化における日韓の交流において渋谷系周辺の音楽が関与していたとのではいう仮説の根拠の提示にすぎませんが、少女時代が放つ「クールネス」の源泉を渋谷系の音楽に求める論拠は、"Genie"とならぶ彼女らのヒット曲"Gee"が(リズムトラックのある種のいなたさやウェットさは、お国柄なのかなと思いつつも)Drum&Bassとも取れるBPMもあいまってTowa Teiの1998年のシングル"Butterfly"をわたしに強烈に想起させるものだったということです。
http://www.youtube.com/watch?v=w1ignTa9MMM
Towa Teiさんの"Butterfly"は、(菊地注*以後ワンブロックはアナリゼなので、基礎知識が無い方はスキップして下さい)
① 歌詞のあるメイン部分→②ラララのchorus部分 の繰り返しで構成されてい
ますが、バッキングトラックが①GM7→②FM7の繰り返しで、ファの音に♯がついたり取れたりする一方、女性ボーカルのメロディならびに高橋幸宏氏によるコーラス部分は、①Cのイオニアン(Gのミクソリディアン?)→②Gのイオニアンで、ファの音は♯なしと♯つきを繰り返します。
(書いておいてなんですが、スケール、モードの表現は、「使用されている音からそのように解釈して取れる」程度のものであり、「違う」と言われたら「失礼しました」としか申しあげられません.
ここで言いたいのは、メロディとバッキングにおいてつねにファとファ♯が漫然とではなく、緊張感をもって使用されている(すれすれでかわし合ったり、少し衝突したり)ということ、そしてバッキングとメロディラインとが織りなす調性あるいはモードの不安定さ、浮遊感です。
※ とはいえ、"Genie"とちがい"Gee"は、コーダルで調性感のはっきりした曲であることは諒解していますし、渋谷系音楽のすべてが上述のクールネスを持っているわけではなく、ソフトロックのような強烈にコーダルなものや、pizzicato five=小西康陽氏のように「ドミソ」への過剰な重力をもった(ケーデンスを伴わないないような)ものもあることも理解しています。
(菊地注*アナリゼここまで)
東京に移り住んだものが中々還らない実家、あるいはパワースポット。
菊地さんはあくまでも説明上の喩えとしてパワースポットに「新宿」の名を冠されていましたが、パワースポットは実は「渋谷」なのではないか?
昨年の今ごろ、HMV渋谷が閉店し、この出来事は「90年代ノット・デッド派」の終焉を明確に告げるお葬式だったと胸に刻印しておりますが、少女時代のとの邂逅に、ふと幽霊に出会った気分でおります。
むろん私のほうで渋谷系を召喚しているきらいもあるやもしれませんし、それを否定しませんけども、ただ、「そうとも解釈できる」かどうかお訊きしたく、また、『憂鬱と官能を教えた学校』の一読者として咀嚼度がこの程度であるということもお伝えしたく、番組の感想に添えてお便りした次第です。
○○
○○さま
菊地です。いつも非常に示唆的で、しかも気持ちの良いお便りを有り難うございます。がっつりお返事、というほどの事ではないのですが、頂いたメールは、それが言及されている領域に於いては、ワタシも完全に同意です。
つまり、あの回では言えなかった(アナリゼに忙しくて、ソウル旅行のレポートが出来なかったからです)のですが、韓流というのは端的に多元宇宙で生じた渋谷系の事です。(後述しますが、多元というより「並走にして多元」といった、若干無理のある感覚が強いのですが)
勿論、当の渋谷系がそうであったように、それは突出したものであり、同時に所謂「過去のダサイものの痕跡」や、チャートの上の方にいる、前時代的な物も音産の中に同居していますが、ソウルのMTVを丸四日間ほど見続けただけでも、そこには様々な現象が同時多発しています。フィールドワーク並びに研究上の結論の中から、解り易くふたつ例を挙げるならば、今ソウルでは「マッコリ・バー」というものがお洒落なものとして流行っており(マッコリは、シンプルに言って、韓国人は余り呑まない物でした。日本で流行ったので、お洒落という扱い成っている様です)、ワタシもいくつかの代表的な店に何度か行ってみましたが、一番お洒落だな(それこそ渋谷や青山の、会員制のバーや、敷居の高いお洒落カフェにでもいるようだ。といった感じの)と思われる、「ムイムイ」というバーで流れていたのは、一度目が(韓国でのリリースが本格派しはじめた)テイ・トウワさんのアルバム、二度目が野宮真紀さんのソロアルバムでした。そして、それこそ今、宮﨑葵さんのご主人に寄ってツイストした形で話題沸騰中の所謂「韓流ドラマ」ですが、劇中音楽も主題歌も、渋谷系をがっちり(マッチョに)させたような感じの物が多いです。
ワタシは巷間アンチ90年代だと誤解されがちで(違いますが)、最近はもう、そういう事も忘れ去られ(&誰にとってもどうでもよくなり)、そして、経年により、若い人々(1〜20代)からハードでリアルな「アンチ90年代」という実感が生じ始めている。といった感じですが、ワタシは90年代というのは「しがみつき」を多産する、極めて魅力的で奇妙なデイケイドだったと今でも思っており、長らくそこを「70年代と似ている」といった、漠然とした直感で総括していたのですが、今から思えば70年代との近似性といったストレートな話だけではなく、事はもう少々複雑で、今では、5〜6〜7〜80年代を網羅的にした、歴史の中の渦潮のような現象だったと、今は大雑把に総括しています。
それは兎も角、韓国という国は、もう「過去の因縁によって特別な関係性がある、同じ北東アジアの中の近隣国」、つまり中国や台湾と同じ、ひとつの近くて遠い他国のひとつ。というより、日本の並走宇宙(これが、概念的には、SFだとしても物理だとしても妄想だとしてもイマイチ無理な概念である事は承知の上で続けますが)として観た方が、日本にも大いに刺激と活力を与えると思っています。この視点の一般化によって、大きく出るならば、我々は、長らく我々を強く拘束していた強迫神経症的な鎖国が破られると思っています。日本に於ける、本質的なポストコロニアリズムの問題とその解決は、残念ながら、そして当然のごとく、韓国によってしか提示され得ないと思っています。
(菊地注*以下ワンブロックはアナリゼ)
分析例として提出された、テイ氏の「バタフライ」のメジャーセヴンの長2度往復ですが、この形は、コーダルな転調として捉えれば、ご指摘の通り、F音が半音で上下移動しますが、同時にF音のみならず、B音も上下運動します。
また、これをモードチェンジと捉えた場合、「FイオニアとGイオニアの同モード軸移動」とも言えますし「(登場しない)センターのCイオニアの、Cミクソリディア(=Fミクソリディア)とCリディア(=Gイオニア)の、同軸モード移動」とも言え、何れにせよ「浮遊感=無重力感の発生」を評価する事が出来ると思います。
しかし、「ジーニー」浮遊感の構造は更に周到でワンステップ複雑であり、やはり極点はサビの、むしろモード状態から抜けた、コードが動き出したパート(サビ)の構造にあり(ドリアン=2マイナーであるBマイナーを疑似トニックのようにして、展開形の3度進行で、ふと実家=♯Fマイナーを3小節目で通過するので、パワーが湧かない)
(菊地注*アナリゼここまで)
また、バタフライとのリズム感よりも、ワタシが「ジー」に感じるのは、バイレ・ファンキやフジ(アフリカのクラブミュージック)の影響を受けた、東海岸のヒップホップの影響。だと思うのですが、まあこうした事はメールの往復ではやりとりが困難ですので、一度ペンディングするとしまして、いずれにせよ、「韓国の渋谷系化(90年代化)」は、「多元宇宙の中の、寄り添う並走宇宙」という、日本が歴史上経験した事が無い状況(日本のアメリカ化はまた別の問題系です)の発生に関する端的な、そして非常に興味深い例で、あって、アレルギー的な強い反発も生じさせながらも(これは不可避的です)、もう止められない、といったエネルギーがあると思います。
そしてその力のありようは、フィールドワークの結果の貴重な情報、とかではなく、一般生活の上での言語感覚に現れている。というのが、ワタシがスパンクスから現在に至る流れの中で予感し、10年の歳月の後に収穫して確認している物です。
数年のうちに「アンドレイ・タルコフスキー」と「イ・ビョンホン」の、語感上の違和感に差はなくなり、更に数年したら「アラン・ドロン」は大変に滑稽な音で、「ムン・グニョン」は極めてナチュラルな音である。という日が来きます。この時に、韓国が並走宇宙である事に対する結界や抵抗は水平化されるでしょう。ワタシは僅か数年前「ピ」って何よ(笑)、といった、非常にオーディナリーな語感を持っていました。しかし、僅か数年で今は「ピ」に何の違和感もありません。
(韓国(及び、広告による洗脳)に抵抗感がある人々(永遠に居なくならないと思いますし、彼等の存在をワタシはフラットに受け入れますが)は、こうした事は代理店とテレビ局の洗脳に寄るもので、菊地も代理店の洗脳にやられたか、あるいはそこに加担している。という説明概念を導入してよしとするでしょう。しかし、「代理店が文化(愚衆)を動かしてしまう」などというのは、80年代にほんの一瞬ありうったかどうか。といったレヴェルの、正に文化バブルなケースであって、代理店が民衆の共同無意識も、文化的な強度も越えて、あたかも洗脳の様に大衆を動かせる。などという現象を信じるのは、陰謀史観もしくは洗脳恐怖への合理化に他ならないものです。愚衆は(仕掛けられた?)流行に乗る人間ではなく、それを敵視して、ファシズムを希釈したファンタジーに拘泥する側の方でしょう)
ワタシの考えでは、ここに至る扉を開け、つまり結界を破って推進したのが渋谷系です。かいつまんで言えば「テイ・トウワ」という偉大な才能に比肩するほど、「テイ・トウワ」という音は絶妙に秀でていた。という事です。
メールにあった「渋谷系と韓国語」の流れは、違和感、特に、旧来的な気持ちよく古くさい、つまり「甘味な」エキゾチックに成り得ない、突き刺さるような違和感として、つまりオジャパメンやポンチャックのような「濃い」もの扱いから、だんだんと「お洒落」にシフトして行った経緯を示してますし、ピチカートはロシア文字にもトライしていました。
何れにせよ、「渋谷系がこじ開けて、韓国は大いにそれに乗っている」という仮説にいくらかの説得力があるのだとすれば、反韓流の人々は、責任を広告代理店やテレビ局にではなく、渋谷系に転嫁しなければならない。渋谷系は言うでしょう「いや、今みたいに成る事を目指していた訳でもなんでもない」しかし、歴史的な責任問題というのは、往々にして、そのようにして弁明される物なのです。
ワタシは韓国の青山(アックジョンドンという地区ですが)にあるムイムイやマック・ホリックで野宮真紀さんやテイトウワさんを聴いて、嫌な気分にも嬉しい気分にも成りませんでした。それは、非常に不思議で解離的で、かつ現実的で、48にして自分の世界観が拡大された様な、非常に豊かな気分でした。
菊地さん
今回いただいた返信で、私が特定の個人として菊地さんに認識されているとわかり、粘着的とも取れる私自身のこれまでの振舞いをあらためて思い返すに至り、まず非常に恥ずかしくなりましたが、
「韓流」はすでに「代理店文化」から離床しているということ、すでにわれわれの「言語感覚」が変容しているというということ、またかの地への体験レポートなど余りにリッチで、かつ私信として頂くにはあまりにも勿体ない、そしてそれゆえとても申し訳ない気分にもさせる返信をいただけて、恐悦至極でした。
年代を跨がるたくさんの固有名詞、専門用語が散らばっているテクスト(とその筆致のスピード感)に触れ、「ああこれは考えてこられたことのごく一部を開陳してもらえているのだな」と思いました。
この辺りについていつの日か、近い日にまとめて発表されることを期待しております。(特に、言語感覚の変容については、「まだ」誰も指摘していないように思います)
ありがとうございました。
(あと、私一人だけのものにしておくのはとても勿体ないので、このメールのやりとりをさせてもらってよろしいでしょうか。mixi上のクローズドネットワークでごく少数の友人にだけ公開したく。)
○○
○○さん
菊地です。以下、まったく構いません。というか、ワタシの方も、この一連をブログに掲示してよろしいでしょうか?
別便による追伸に成りますが
粘着的であるとは全く感じておりませんので、ご安心(?)下さい(笑)。粘着性は文字数や回数とは関係ありません。たった一度の、僅か数文字のメールでも強い粘着性を感じさせるものもありますし、日課の様にメールを下さる方でも、まったく粘着性を感じない物もあります。○○さんからのお便りは、いつでも示唆的かつクールで、良いヴァイブスばかりを感じ、有り難く頂戴しております。
きくち
菊地さん
ありがとうございます。
こちらも、まったく構いません。
よろしくお願いいたします。
(もう一方の返信について)
菊地さんからのレスポンスにより、(メールを出し菊地さんに問いかけた)私がどのように映っているのか、はっとさせられることが幾度とあり、そういったレスポンスをいただける方がいるということに自分は非常に助けられ、勇気づけられているなと感じます。
私も、私に関わってくれる人たちに対して、そのような立場になれればと(ヘルシーで余裕のあるときはなんとか)思います。
○○